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戦国山城を歩く
明智光秀勢を迎撃、静原城山城
静原城は山上の城谷山城と、南東尾根先の城山城の二つがある。戦国時代、山本氏が拠ったところで、敦賀街道を扼する要衝の地に
位置している。弘治三年(1557)、三好長慶が城谷山城を築き、配下に属していた岩倉山本氏が守備を任されたようだ。その後、
織田信長が足利義昭を奉じて上洛してくると山本氏は信長・義昭に通じた。のちに、信長と義昭が決裂すると、山本氏は義昭に通じて
静原城に立て籠り、明智光秀の軍勢を迎え撃った。城山城は、このとき光秀が城谷山城攻撃のための付城として築いたものとする
説もある。しかし、双方の城とも山本氏が拠ったものと思われ、攻防戦が起こると明智軍に攻略された南尾根の城は付城となり、
山本氏が下ったのち改めて石垣造りに修築されたものであろう。
城址は広い曲輪、大きな土塁、高い切岸などがよく残っている。そして、主郭周辺の石垣、北端曲輪の大土塁と北方尾根を穿つ
大堀切が見事だ。北尾根には竪堀も設けられ、たしかにその先にある城谷山城からの攻撃を意識した造りに思われる。しかし、
主郭を北において、南へ曲輪が段々に築かれた縄張から考えると、敦賀街道を往来する旅人に対する威圧を重視したのではなかろうか。
石垣を多用したのも、防御もさることながら見せる城としての側面も感じさせる。全体的に石垣の崩落が進んでいるものの、
切岸・土塁などの保存状態は良好で、見どころの多い山城だ。
・長閑なたたずまいの静原、左手の山上に城址が。
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