岩倉山本氏
五本骨扇に日の丸
(清和源氏義光流)
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山本氏は『尊卑分脈』によれば、清和源氏義光流となっている。すなわち、八幡太郎義家の弟新羅三郎義光の孫遠江守義定が、近江国浅井郡山本を本拠にして山本を名乗ったのだという。
ちなみに、義定の兄昌義は佐竹氏の祖である。
義定の子義経は弓馬の達者として聞こえ、『吾妻鏡』にも記された武人であった。治承四年(1180)、伊豆の源頼朝をはじめとした諸国の源氏が平家打倒の兵を挙げると、義経も弟の柏木甲賀入道義兼らとともに挙兵。水軍をもって琵琶湖をおさえ、北陸からの年貢の輸送を止めるなどして都の平家を苦しめた。しかし、家の大軍に山本山城を落とされたのち、木曽義仲軍に加わって上洛、義仲の下で若狭守などを歴任している。寿永三年(1184年)1月20日、源義仲は源範頼・義経の軍に攻められ没落。この合戦の直後に子の義弘が右衛門権少尉に任じられているが、山本義経の消息は不明である。頼朝の弟義経とは同名のため、
両者を同一人物とする説も唱えられたが、まったくの異人であり世にあらわれたのは山本義経の方が早かった。
鎌倉時代末期に起こった正中の変に際して、山本九郎時綱は六波羅の命を受けて謀反に加担している土岐頼員の宿所へ討ち寄せた。そして、長刀で武裝した中間二人を率いて討ち入り、頼員の子頼兼を討ち取ったと『太平記』に記されている。山本氏が六波羅探題に出仕し、相応の地位の武士であったことが知られる。戦国時代、武田信玄に仕えた山本勘助は、伝によれば九郎時綱の子孫という。
また、中世の洛北岩倉に勢力を有した土豪山本氏も、同家に伝来する系図には九郎時綱の後裔となっている。
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写真:近江湖北町の山本義経旗揚げの地(左手後方が山本山城址)
岩倉山本氏の登場
山本氏の系図によれば、山名氏が将軍義満に謀反を起こした明徳の乱に際して、九郎時綱の孫にあたる山本茂尚が義満に味方して戦死したとある。その子義立は将軍足利義教に仕え、娘が岩倉の伊佐家に嫁いでいることから、この義立のころに岩倉と関わりを持つようになったようだ。
伊佐家は佐々木氏の後裔を称しており、雅綱のとき岩倉に居住するようになったという。
両者はともに近江の出自ということで、縁を結んだとも考えられる。
やがて応仁の乱が起こると尚親は将軍義政に属して活躍、岩倉一帯、醍醐、河内、近江、丹波などに所領をえた。そして、小倉山に城を構えたという。一方で西川家系図によれば、文明十六年(1484)に細川政元の家臣香西元長が岩倉に乱入しようとしたとき、小倉山城主西川氏の援軍として静原から駆けつけた。これが、山本氏が岩倉に進出するきっかけになったようでもある。いずれにしろ、山本氏は尚親のとき、岩倉に一定の地歩を築いたようだ。
応仁の乱は幕府体制を揺るがし、将軍をはじめ守護大名・寺社は衰退、代わって国人らが台頭した。いわゆる下剋上の世となったのである。文明四年、乱に加えて飢饉となったことで、京市内には悪党が跋扈するようになった。尚親は内裏を守護した功により、巴橘紋の練絹を賜り、それで軍旗をつくり、家紋とするようになったと系図にある。
のちに尚親は従五位下に叙され、佐渡守を称している。
尚親のあとを継いだ親資は、三好氏から養子に入った人物で、足利義尚が起こした六角征伐に従軍している。洛北岩倉を支配下におさめ、将軍家に仕える存在になっていたようだ。将軍義尚が近江の陣で没すると、義材が将軍職に就いたが、やがて管領細川政元との間に不穏な空気が漂うようになった。そして、明応二年(1493)、義材が畠山政長とともに河内に出陣した留守をついて細川政元がクーデタを起こした。明応の政変であり、この変によって戦国時代が始まったとする説もあるように、
以後、洛中では権力闘争が繰り返されるようになり世の中は確実に戦国乱世へと推移していった。
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