大内弘世が守護所および総督府として建築した大内館、往時は方百間の土塁・堀がめぐらされていた。大内氏が滅亡したのち、弘治三年(1557)、館跡に毛利元就が大内義隆の菩提寺を弔うために龍福寺を建立した。境内には義隆の供養塔が建立され、随所に大内氏の「唐花菱紋」を見ることができる。山門の前には、キリスト教を日本に伝えたザビエルゆかりの井戸が残されている。
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龍福寺の北隣に鎮座する八坂神社は、応安二年(1369)、大内弘世が京都から勧請したもので、本殿は大内義興が再興したときのそのままである。祭礼は山口の祇園祭として有名で、奉納される鷺舞神事は古式を伝えたものとして貴重なものだ。神社の境内には大内氏の居館であった築山殿の遺構が残り、先年の発掘調査で金泥の瓦や園池などが発見され、往時の華麗さが再認識された。 山口の街のあちこちから見える鴻ノ峰山上には、陶晴賢に擁立された大内義長が毛利元就に対向して築いた高嶺城跡が残り、大内氏の最期を伝えている。
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日本三名塔の一番に数えられる瑠璃光寺の五重塔は、応永の乱で戦死した大内義弘の菩提を弔うため弟の盛見が建立したという。その優雅な姿は、室町中期におけるもっとも傑出した建造物と評されている。そもそも瑠璃光寺は、吉敷郡仁保の地にあったが、江戸時代、毛利氏によって現在地に移された。瑠璃光寺から少し歩いたところにある洞春寺は、大内持盛の菩提寺で滝の観音寺を再建したもの。創建は永享二年(1430)と伝えられ、山門と観音堂は室町時代の禅風を伝える雄渾な造りだ。関が原の合戦後、毛利氏が防長に移封されると毛利元就の菩提寺になった。毛利氏の治世下で変化はあったものの、山口の町には大内氏の栄枯盛衰の跡が色濃く残っている。
・2007年6月1日
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