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戦国山城を歩く
壮大な縄張と見事な畝堀、楽々前城址
楽々前(ささのくま)城は丹波守護山名氏の重臣であった垣屋氏が拠った城で、応永年間(1394〜1428)に垣屋隆国が築いたものと伝えられている。城は日高町西武の三方盆地の東側、佐田から伊府を経て道場に伸びる佐田連山の山上に築かれ、南北800メートル、東西250メートルにおよぶ規模壮大な山城である。
城は最高所の主郭周辺、主郭東北尾根の曲輪群、そして北尾根先の出曲輪の三つに区分される。北尾根先の出曲輪が最初に築かれたもので、織田軍が但馬に侵攻をはじめた
永禄の末ごろ(1570年ごろ)に現在残る遺構に整備されたと考えられている。
主郭は1800uという広さで、それを腰曲輪が取り巻き、北東、北西尾根に階段状に曲輪が築かれている。主郭東南の尾根には二重の堀切が切られ、北西尾根先には曲げ土橋を伴う大堀切が切られ西側の尾根に切られた畝堀群の規模は圧巻である。主郭の切岸には崩落した石が散在し、北西の曲輪群には石垣が確認できる。おそらく、往時は石垣が取り巻いていたものと見られ、切岸も高く、曲輪も十分な広さだ。さらに大堀切の先の階段状に築かれた曲輪群も堀切や竪堀、土塁が設けられ、垣屋氏宗家が拠った城に相応しい規模である。北の出曲輪群から主郭に至る城址を歩くと、
北からの攻撃には鉄壁の備えをみせていることが実感される。
・西方の佐田側から楽々前城址を見る(20080705)
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