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越後北条氏

 天文二十三年(1554)北条高広は武田信玄に応じて上杉謙信に背いたため、翌年、謙信に北条城を攻められて降伏。以後、高広は謙信から重んじられ、奉行や七手組隊頭の重職に任じられ、さらに上野国厩橋城代となり関東経営に当たっている。謙信が高広を許したのは、その力量とともに少年時代国主に擁立してくれた豪族の一人だったからだろう。
 謙信の死後、天正六年にはじまる御館の乱では、景虎方に属して上野国から北条城に帰り越後各地を転戦したが、翌年、景虎が戦死、北条城も落ちた。しかし、高広は甲斐武田氏の仲介もあって天正十一年許されて、上杉景勝の家臣に復した。

出羽寒河江氏

 『天文本大江系図』『尊卑分脈』では、室町初期の時氏を寒河江氏を名乗った初代とし、現存資料でも、このころからようやく寒河江氏の名称が見い出される。時氏以後、代々寒河江城に拠り、一族を柴橋・君田・左沢・溝延・荻袋・高屋・白岩などに分封し、また落裳・貫見などにも館主を配置して村山郡の西部一帯を掌握し、山形斯波氏に対抗する勢力圏を形成した。
 しかし、天正十二年(1584)、最上義光に攻めたてられた大江高基(尭元)は、貫見に逃れて御楯山で自刃し、寒河江大江氏は滅亡した。

上野那波氏

 那波郡に、鎌倉幕府草創期の功臣大江広元の子政広が郡地頭として入部し、その子孫は那波氏を称した。十五世紀には、那波上総介宗元は足利持氏の直臣(奉公衆)として活躍し、永亨の乱で持氏に殉じている。その一方で、那波刑部少輔入道・大炊介・左京亮は上野一揆、那波内匠介は上杉氏の被官としてその反対陣営にあって活躍した。すなわち那波氏は数家に分かれ、奉公衆・上野一揆・守護被官にそれぞれ分かれていたことがわかる。このようなことは国人層にある程度共通していたことであろう。
  天文十年(1541)、那波刑部大輔宗俊は、新田の横瀬泰繁と抗争し、居城を攻め落とされて討ち死にしている。
  




戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、 どのような意味が隠されているのでしょうか。
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