中世大和国宇陀郡には、秋山・沢・芳野の「和州宇陀三人衆」と称される武家があった。 秋山氏は、国造が貢進したという伊勢神宮領大和国宇陀神戸の神戸社の神主家で同神宮の被官であったと考えられる。神戸社が春日社の末社になると秋山氏は春日神人の国民として興福寺被官にもなったものとみなされる。宇陀秋山城に拠った。その氏祖は甲斐源氏の秋山光朝というが詳らかにはできない。 沢氏は、宇陀郡沢の沢に拠った国人で、出自は藤原氏という。 芳野氏は、宇陀郡東郷の芳野城に拠った国人で、鎌倉時代末期の正和四年(1315)の春日若宮神主祐臣の「祭礼記」に「流鏑馬十騎、芳野二騎」とみえ、興福寺の配下にあったことがうかがえる。出自は不詳である。 秋山・沢・芳野の三氏は『勢衆四家記』では、「和州宇陀三人衆」として伊勢国司北畠氏の与力、のちには被官になったと記されている。南北朝時代北畠氏は南朝方であったことはいうまでもないが、宇陀三将のうち秋山・沢両氏が南朝方であったことは『太平記』の「神南合戦」の条に「和田・楠・真木・佐和(沢)・秋山」とみえ、楠木氏らとともにその存在が知られる。しかし、芳野氏の名は見えない。 大和内乱 室町時代になると、応永十二年(1405)八月幕府は宇陀郡を興福寺大乗院に管領させた。大乗院は南北朝時代北朝・幕府方であったため、南朝方であった秋山・沢両氏は宇陀郡内の興福寺領荘園を押領して対抗した。 ついで応永二十一年五月、多武峯寺と沢氏との間に争いが起こり、幕府はこれを制止しようとして興福寺に命じ、さらに使者を派遣した。一方、翌二十二年三月、伊勢国司北畠満雅が皇統継承が南北両朝合一時の約束に違うとして後南朝方に応じて挙兵すると、秋山・沢両氏はこれに参加した。芳野氏の動きはみられない。とくに沢伊予守は、北畠満雅から神戸六郷の内司職・検断職を宛行われている。 その後、大和永亨の乱が勃発すると、秋山・沢両氏は越智氏と結び、幕府方の筒井氏に対抗した。やがて、後南朝方の幕府への対抗も崩壊し、戦国時代初期になっても秋山・沢両氏は北畠氏の麾下にあったことが『大乗院寺社雑事記』の記事からうかがわれる。しかし、文明十六年(1484)七月、秋山・沢両氏の間に諸木野をめぐっての合戦が起こった。この合戦は北畠氏も越智氏も仲介に入らなかったため起こったという。 この合戦に古市澄胤は秋山氏に協力して澄胤自からが出陣した。そして、沢氏を討つため北畠具教も自ら出陣すると、沢氏は敗北、古市澄胤は宇陀からひきあげた。ついで、文明十七年から長享元年(1487)にかけての東山内動乱に際して沢新介は筒井氏とともに吐山陣にあり、古市・越智両氏は多田方にあった。ちなみに、この合戦は年内に一段落した。 文明十九年、越智氏が長谷越の道路を壷坂越に替えて新関を設けたのに対し、長谷寺が反対し、伊勢国司も秋山・沢両氏の賛同を得て同関を破壊するという事態が起こった。こうしたなかで、秋山実家が亡くなっている。そして、古市澄胤の女婿秋山某が、実家の秋山氏惣領になった。このことは、越智氏の新関に対して伊勢国司が反対する原因にもなったようである。つまり、越智氏は秋山氏とは血縁関係があり、古市澄胤の女婿某の家督継承に反対していた。これに対し国司は秋山氏との関係を重視して秋山某を支持したものと考えられるのである。 一方、長享二年二月、伊勢国司の前で沢源左衛門が切腹させられている。これは前記の諸木野をめぐる秋山・沢両氏の合戦における国司出陣の決着とみなされる。このため、国司と沢氏の関係は冷え切ってしまった。これを何とか元に戻そうとした国司は、応永二十二年の神戸六郷の沢伊予守への宛行状と関係させる形で沢兵部少輔に宛行状が出され、沢氏が所望していた坂内殿被官科人跡の検討も約している。 その後、明応六年(1497)伊勢国司材親と弟師茂との間で合戦があり、国司方の秋山某が自害した。この某は古市澄胤女婿の某と思われ、その跡を継いで国堅が秋山氏惣領となった。 戦国期の動向 天文二十四年になると、秋山・沢両氏の対立が激化する。とはいえ、武力を用いるのではなく、話し合いをもって事態を解決しようとしている。このころ宇陀郡と吉野郡の一部を含む一揆が結成されており、一揆は在地武士のみならず郷民等の組織も存在していた。これは武士相互の対立による不安定さもあるが、百姓・地下人が惣荘を組織して強力な体制を作っていたものとも考えられる。郡内一揆はさらに北畠氏の配下に入ってその知性を強化する形で安定化していった。 『勢州軍記』に「秋山謀叛事」がみえ「秋山入道宗丹之子藤次郎入道遠州」が三好の婿として威を振るい、伊勢国司北畠具教の命にも背くので、永禄のはじめ頃(1558〜)神楽岡城を攻めたと記されている。和睦が成立したが、宗丹は北畠の質として大内山城で死去したという。ついで子息の藤次郎遠州も没し、弟の次郎が遠州の跡を継ぎ、右近将監として織田信長家臣滝川一益の婿になった。 永禄二年(1559)松永久秀が大和に侵入し、翌年んは宇陀郡へ支配を及ぼし、摂津の軍勢を率いて沢・檜牧の城を攻めた。そして話合いによって両城を占拠した。沢城へは久秀の部将高山飛騨守図書が入部した。キリシタン大名高山右近の父にあたる人物である。同年十二月、沢兵部大輔は北畠具房から神戸・西黒部検断職を安堵され、沢氏は東方に進出して北畠氏との関係を強化し、北畠氏が天正四年(1576)に滅亡するまで同氏被官として存続したようだ。 一方、秋山氏は西方の大和国中に眼を向け、筒井氏と結んで十市郷内の興福寺寺門領をめぐって十市氏と争い、十市遠勝が永禄十一年(1568)に秋山氏を森屋城に攻めるということもあった。ついで遠勝が三好三人衆と結ぶと秋山氏は松永久秀方に走り、十市氏と対抗した。 その後、山崎の合戦に筒井順慶が八幡洞ケ峠に出陣の際、秋山氏は筒井城に在番していることから、筒井氏の配下に入ったものと考えられる。ついで、天正十二年蒲生氏郷が豊臣秀吉から南伊勢を与えられ松ケ嶋城に入ったが、宇陀三人衆はその与力衆となって、氏郷のもとで織田信雄方の木造具康の木戸の城攻めに参加している。翌年、筒井氏の伊賀移封があり、宇陀郡は秀吉の蔵入地として代官伊藤織部が秋山城に入部してきたので、大和の領主支配も根本的に変わっていった。もっとも蒲生氏郷は天正十八年に、奥州会津に転封となったが、宇陀三人衆はそれに従わなかったようである。 戦国時代の終焉 『関ヶ原始末記』によると、徳川家康が慶長五年(1600)上杉景勝討伐の軍を進めたが、家康の配下として秋山右近が従軍している。その功績が認められたのか、「慶長郷帳」に旗本秋山右近の名が見える。その後については、慶長十九年の大坂冬の陣に際して秋山右近は箸尾氏らとともに大坂城に入り大野主馬の配下に入って活躍したという。右近は直国と称したというが、大坂の役において戦死したようで、秋山氏は滅亡したものとみなされる。 沢氏は隼人が藤堂氏家中の佐伯準之助の配下にみえるが、「討死の面々」のうちにもその名がみえることから、大坂の陣で討死したものと思われる。 【参考資料:奈良県史11-大和武士】 ・詳細サイトにリンク→ ■ 秋山氏/■ 沢 氏 ■宇陀三将の系図をご存じの方、ご教示ください。 |