笠原氏は奥州探題職を長く世襲した大崎氏に属して、その興亡をともにした。仲沖の子らにはじまる笠原一族の戦場における精強ぶりは、大崎家中笠原党として世に知られている。『笠原系図』によると、笠原重広をもって祖とし、遠祖は清和源氏木曽義仲に遡ると伝える。 始祖笠原重広は延元二年(1337)に奥州に入り、初めは志田郡師山城に居り、同四年に山城を築きそこに拠った。また重広は熊野神社を移したことで、その居城から見渡す一帯が宮の崎であることから宮崎と呼ばれるようになり、城も宮崎城と名づけたと伝える。自然の要害の地で、大崎氏の居城である中新田城・名生城と共に大崎領の三大名城のひとつに数えられた。以来、笠原氏は二百有余年にわたって同地方を支配し、加美郡惣領であった。 大崎家中、一方の雄 七代が仲沖で宮崎氏も称し、大崎氏に属していた。仲沖には数人の男子があり、嫡子の美濃守隆治が父の跡を継いで宮崎城主となり宮崎を称した。 隆治は大崎家中の主流派の中心人物で、氏家党と並んで大崎氏を代表する一党笠原氏の惣領だった。天文五年(1536)の大崎氏の内訌に際しては、古川氏方に味方して、その鎮圧にあたった伊達稙宗に対して抵抗しており、大崎家中における反伊達勢力の一員でもあった。隆治の跡を継いだ子の隆親は民部少輔を称して、父と同じく大崎家中の主流派として重きをなした。 戦国期、大崎氏は家臣団の内訌が続いて伊達氏の介入を許していたが、義直の代になると親族の最上氏の後援もあって、自主独立の風が見られるようになった。ところが天正十四年(1586)、義直の寵臣の新井田刑部と井場野惣八郎との間に確執が生じ、井場野は大崎氏の重臣である氏家弾正を頼った。一方の新井田一党は伊達政宗を頼り、大崎義直を拉致する挙に出たのである。 その後、変転があり、本来主君派であった氏家氏一党が義直を擁する新井田一党から窮地に陥れられる結果となった。驚いた氏家弾正は伊達政宗を頼った。政宗は先に新井田氏からの依頼を受けながらも、新井田一党から裏切られた苦い記憶もあり、氏家からの要請を快諾し兵を大崎領に送ることを決した。かくして、天正十六年(1588)伊達軍と迎え撃つ大崎軍との間で合戦が繰り広げられることになった。 この戦いは、のちに「大崎合戦」と呼ばれる。当時、政宗は常陸の佐竹氏、会津の葦名氏と対立しており、さらに大崎氏を後援する最上氏の存在もあって、米沢城を動くことができなかった。そこで、大崎侵攻軍の大将に留守政景と泉田重光の二人を命じて一万数千という大軍を送った。迎え撃つ大崎軍は中新田城を拠点として、桑折城・師山城に兵を配して伊達軍の進攻を待った。 大崎合戦 中新田城には城主(城代)南条下総守をはじめ、屋木沢備前・谷地森主膳・米泉権右衛門・宮崎民部・笠原内記など笠原氏一族が立て籠った。 伊達軍は二手に分かれて、先陣を率いる泉田重光の軍が中新田城を攻撃した。さすがに伊達軍の攻撃はすさまじく、中新田城は三の丸・二の丸っを落とされ、本丸を残すばかりとなった。そこに、突然の大雪となり、雪支度のない伊達軍は城攻めをあきらめて兵を引こうとした。ここに伊達軍と籠城勢との立場は逆転した。 時間は前後するが、伊達勢の中新田城攻撃を察知した氏家勢は伊達勢に合体しようとして押し出してきたが、双方の連絡がとれていなかった模様で、氏家勢は兵を引こうとした。ところが、氏家勢の一栗兵部が中新田勢に打ちかかった。これをみた屋木沢・谷地森ら笠原一族は、一栗勢を引き付けると一斉に鉄砲の射撃をくらわした。至近距離でもあり、一栗勢の大半が傷付いたが、一栗勢は笠原勢のなかへ斬り込んできた。笠原勢も鉄砲をすてて抜き合せ、激戦が展開された。一栗勢の苦戦をみた氏家勢が乱入したが、笠原勢もこれを迎え撃って追撃に移った。しかし、すでに陽は落ち、雪で道もぬかるみ、さらに岩出山城から救援隊が駆け付けたため、さすがの笠原勢もあきらめて兵をひいた。 中新田城の攻防を聞いた留守勢は進撃を開始したが、大崎勢の作戦にはまって進退窮まった。そこへ、桑折城・師山城の兵も加わった大崎軍が襲い掛かり、伊達軍は散々な敗北となった。留守政景は玉砕を覚悟したが、桑折城将で政景には舅にあたる黒川月舟斎の憐憫によって窮地から救われた。こうして、黒川月舟斎の戦略と笠原一党らの奮戦によって、大崎勢は伊達軍を雪の大崎原野に撃破したのである。しかし、合戦に勝利したとはいえ、大崎氏の力はここまでが限界であった。 翌十七年には政宗の母などの仲介もあって、大崎氏伊達家に服属せざるをえなかった。そして、天正十八年の豊臣秀吉による「小田原の陣」に、領内不穏のため参陣できなかったことで、所領は没収され大崎氏は没落した。 大崎氏の没落と大崎・葛西一揆 奥州仕置によって、大崎氏、葛西氏らが没落すると、大崎・葛西領は木村吉清・清久父子に与えられた。木村吉清は明智光秀の旧臣で、それまでは五千石で秀吉の旗本だった。そのような人物が、にわかに三十万石という大封の大名になったため、身分の低い者を武士に取り立て浪人を雇用したにわか仕立ての家臣団を従えて入部してきた。かれらは、厳しい太閤検地の実施を行い、成り上がりの武士たちが乱暴狼藉を働くなどしたため、これに反発した大崎・葛西氏の旧臣らが一揆を起こした。 一揆とはいえ、もとは大崎氏・葛西氏に属して戦国時代を生き抜いた武士たちであり、一揆勢は主要な城を落とし木村吉清を佐沼城に押し込めた。これが「大崎・葛西一揆」と呼ばれるもので、一説には大崎・葛西領をわがものにしようと目論んだ伊達政宗が煽動したために起ったともいわれている。たしかに、政宗の一揆に対する手当は生ぬるいものであったようだ。さらに、氏郷のもとに伊達家家臣の須田伯耆が「政宗が一揆を煽動している」と書状を持参して訴えた。ここにいたって、政宗とともに一揆征伐にあたっていた蒲生氏郷は、蒲生軍だけで大崎領の名生城を落とし政宗を豊臣秀吉に訴えた。 秀吉に召された政宗は、白装束に黄金の磔柱を押し立てて京にのぼった。そして、秀吉の面前で開かれた弾劾裁判に須田伯耆が氏郷のもとに持ち込んだ書状が政宗煽動の動かぬ証拠として提出されたが、政宗は「せきれいの花押」の目の部分に穴が開いていないことを理由に身の潔白を図った話はよく知られている。 こうして天正十九年、政宗は葛西大崎旧領を伊達家の所領にするとの内定まで得て、一揆鎮圧に本腰で望み、伊達軍団を笠原氏が頑強に立て籠る宮崎城攻略に進発させたのである。これに対して、宮崎民部少輔が率いる笠原党三千余は、一万余の伊達政宗軍と華々しい攻防戦を行った。しかし、前年とは違って伊達政宗は、徹底的に一揆勢を打ち取る構えであった。二日間の激戦の結果落城となったが、宮崎勢の抵抗によって伊達軍は人取橋・摺上原の合戦以来の勇将浜田伊豆景隆を失っている。 宮崎城落城後、隆親・隆元父子は道城蔵人・上ノ沢讃岐・今野与惣右衛門らとともに秋田仙北に隠れ住み、のち山形の村山に至って楯岡城主本城氏に仕え、名を笠原織部と改めたという。この合戦によって、豊臣政権に反抗する一揆勢は壊滅し、大崎領は伊達氏が支配するところとなった。そして、時代は中世から近世へと大きく変遷するのである。 笠原一族の動向 その他の笠原一族は、仲沖の二男直広は大楯城主となって柳沢を称し、その嫡子隆綱は加美郡柳沢字檜葉野の「琵琶城」城主。「古城書上」に八木沢備前、「風土記」に柳沢備前とみえる人物である。また、笠原一族のなかでも実力者として知られた。弟の近江守直康は笠原を名乗り、加美郡色麻村高根の高根城主であった。 「古城書上」「風土記」ともにに笠原内記と伝える。また笠原近江守直康とは同一人物と思われる。 三男の七郎直次、六男の直邦はともに笠原氏を称して、笠原党の一員として大楯城、孫沢城に拠った。四男の伊勢守直行は米泉城を興して独立、米泉氏を名乗った。その子が権右衛門長行である。「古城書上」によると、直次・直邦・米泉父子らは宮崎合戦でともども討死にしている。 五男直景は、「古城書上」「風土記」などに加美郡宮崎町谷地森字根岸の「谷地森城」城主であったと伝えている。そして地名によって谷地森氏を名乗った。その子隆景は、一説には八木沢備前の弟ともいわれるが直景の子とするのが正しいようだ。谷地森氏は、天正末の大崎合戦には下新田城に籠り、宮崎城攻防戦にも籠城軍として戦った。こうして、笠原氏一族は大崎氏に殉じるかたちで終焉を迎えた。余談ながら、笠原近江守直康の子孫が近世伊達氏の家中として存続し笠原氏の血脈を伝えた。 『伊達世臣譜禄』にみえる「石森笠原氏」の記述を見れば、その祖は吉備斎藤氏で信親のときに笠原を称し、以後名字と為したとある。そして、重広のとき志田郡師山城主となり、子孫は代々大崎氏に老臣として仕え、直康のとき加美郡高根城に拠り、天正十八年の大崎氏滅亡に遭遇したとしている。これによれば藤原姓ということになるが、おそらく藤原姓である伊達氏に出自を合わせたものであろう。 ちなみに同記のなかの「御馬印の事」には、出雲隆康の代は大馬印「地色くちは文字黒く無、長さ四尺三寸六分、横三尺五寸二分、但し三幅」とあり、また、内記盛康のときには「円に無文字」であったとある。いずれも、旗紋として「無文字」を記した旗を用いていたことが記されている。このことから、笠原氏は「無文字」を家紋として用いた可能性も考えられる。 『笠原一族の系譜』に紹介された奥州笠原氏の家紋の記述には「丸に三階菱」とあり、確認しましたところ「丸に松皮菱」ですと返事をいただきました。その出所が気になるところです。 【参考資料:宮崎町市/戦国大名家臣団事典[東国編] ほか】 →笠原氏ダイジェスト
■参考略系図 |