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笠原氏 ●ダイジェスト
円に無文字*
(清和源氏木曽氏流)


 『笠原系図』によると、笠原重広をもって祖とし、遠祖は清和源氏木曽義仲に遡ると伝える。始祖笠原重広は延元二年(1337)に奥州に入り、初めは志田郡師山城に居り、同四年に山城を築きそこに拠った。また重広は熊野神社を移し、その居城から見渡す一帯が宮の崎であることから宮崎と呼ばれ、城も宮崎城と名づけたと伝える。自然の要害の地で、中新田城、名生城と共に大崎領の三大名城のひとつに数えられた。以来、百六十余年同地方を支配し、加美郡惣領であった。
 七代仲沖は宮崎氏も称し、大崎氏に属していた。仲沖には数人の男子があり、嫡子の美濃守隆治は父の跡を継いで宮崎城主、宮崎を称した。大崎家中の主流派の中心人物で、氏家党と並んで大崎氏を代表する一党笠原氏の惣領だった。天正五年の氏家党の反乱には伊達氏と協力して反主流派の鎮圧に赴いている。
 隆治の子隆親は民部少輔を称して、父のあとを受けて大崎家中主流派の中心人物。天正末の大崎合戦時には中新田城に籠り活躍した。なかでも同十九年六月、秀吉の奥州仕置に際しては、笠原党三千余を率いて宮崎城に籠城し、一万余の伊達政宗軍と華々しい攻防戦を行った総大将として名高い。しかし、宮崎城は二日間の激戦の結果落城となった。この合戦後、大崎領は大崎氏支配から伊達氏支配に移り、中世から近世へと、大きく変遷するのである。
 隆親・隆元父子は宮崎城落城後、道城苦蔵人、上ノ沢讃岐、今野与惣右衛門らとともに秋田仙北に隠れ住み、のち山形の村山に至って、楯岡城主本城氏に仕え、名を笠原織部と改めたという。
 仲沖の二男直広は大楯城主となって柳沢を称し、その嫡子隆綱は加美郡柳沢字檜葉野の「琵琶城」城主。「古城書上」に八木沢備前、「風土記」に柳沢備前とみえる人物である。また、笠原一族のなかでも実力者として知られた。弟の近江守直康は笠原を名乗り、加美郡色麻村高根の高根城主であった。「古城書上」「風土記」ともにに笠原内記と伝える。また笠原近江守直康とは同一人物と思われる。
 三男の七郎直次、六男の直邦はともに笠原氏を称して、笠原党の一員として大楯城、孫沢城に拠った。四男の伊勢守直行は米泉城を興して独立、米泉氏を名乗った。その子が権右衛門長行である。「古城書上」によると、直次・直邦・米泉父子らは宮崎合戦でともども討死にしている。
 五男直景は、「古城書上」「風土記」などに加美郡宮崎町谷地森字根岸の「谷地森城」城主であったと伝えている。そして地名によって谷地森氏を名乗った。その子隆景は、一説には八木沢備前の弟ともいわれるが、直景の子が正しい。谷地森氏は、天正末の大崎合戦には下新田城に籠り、宮崎城攻防戦にも籠城軍として戦った。
 笠原氏は大崎氏に属して、その興亡をともにし、仲沖の子らにはじまる笠原一族の戦場における精強ぶりは、大崎家中笠原党として世に知られている。




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