源頼朝の奥州征伐に功があり、以来、会津只見川中流、横田の地に移り住んだ。相州鎌倉山ノ内より出たことから山内を名字とした。伊勢国・伊賀国の守護に任じられるなど、鎌倉幕府にあって重きをなした。しかし、実朝のとき、北条氏に讒言されて鎌倉を追われ、経俊の子通基は越後国山本についで、伊北庄に至った。季基のとき、鷹巣山に中丸城を築き本拠とし、麓下の集落を「横田」と改めた。 季基以降の動静については史料性に乏しい。山内氏は横田を本拠に野尻・川尻・沼沢・布沢・滝谷・桧原・西方に一族を配し「山内七騎党」と呼ばれる組織により、所領を支配していた。他の大名と違い、同族間の争いはほとんど無かった。 戦国期の山内氏は山間部という立地的条件から侵略の対象とならず、近隣の戦国大名、葦名氏・越後長尾(上杉)氏と従属的な同盟関係を結び、その所領の領有を保っていた。またその一方で、葦名氏・越後長尾氏と対峙していた伊達氏・甲斐武田氏などとも関係をもっていた。 葦名盛氏が葦名氏当主となると、天文12年(1543)盛氏は武力により山内氏を制圧する。山内氏の当主舜通は一時越後に逃れるが、ほどなく葦名氏と和睦し領地の三分の一を割譲。さらに、一族から人質を差し出している。舜通の子氏勝は葦名盛氏から偏諱を受けたものであろう。 天正八年(1580)、葦名盛氏の死を契機として、葦名氏内部の統制力は無くなり、山内氏も葦名氏に背くことが多くなる。 天正十五年、豊臣秀吉によって惣無事令(私戦禁止令)が発せられ、大名間の戦闘が禁止された。しかし、葦名家中が後嗣をめぐり伊達・佐竹派に分裂し、佐竹義重の子義広が跡継ぎとなると、天正十七年、伊達政宗は摺上原で葦名義広を破り、義広は黒川城を捨て常陸に逃亡し、葦名氏は滅亡する。政宗は会津に侵攻を開始し、黒川城に入城。山内氏は伊達氏に服属することを拒み、河原田氏とともに伊達氏の侵攻に備えた。 伊達氏は山内氏領に侵略し、中丸城は落城し、大塩城に入城した。山内氏と同盟関係にあった越後上杉氏および上杉氏を介して石田三成からも援助物資が届けられ、さらに上杉氏は、木戸元斎を会津に派し、只見に水窪城を築き、伊達氏の攻撃を迎え撃った。 この状況は秀吉の小田原征伐まで続き、政宗の秀吉服従により終結した。山内氏は葦名氏の旧臣として豊臣政権に認識され、領地の安堵はならなかった。以後、山内氏は上杉氏の家臣となり、戦国大名としての山内氏は滅亡した。 ←山内氏へ
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