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戦国山城を歩く
山岳寺院跡に構えられた峰ヶ堂城址
峰ヶ堂城城址は丹波と京を結ぶ唐櫃越の古道沿いにあり、南方には沓掛から老ノ坂を越えて丹波に通じる
山陰道(現国道九号線)が見下ろせる。文字通り、丹波から京への入り口を扼する要衝の地に構えられた山城だ。
そもそも、城址一帯には法華山寺という山岳寺院があって、通称「峰ヶ堂」とよばれていた。盛時には、
『東の清水寺、西の法華山寺』といわれたほどの大伽藍を誇り、室町幕府の祈願寺としても崇敬を集めていた。
記録によれば将軍足利義政をはじめ公家・皇族などが参拝したようだが、法華山寺は戦乱のなかで衰微していったようだ。
そうして十六世紀のはじめ、細川晴元の家臣木沢長政が西岡支配の拠点として寺院跡に城を築いたのが峰ヶ堂城である。
城址は唐櫃越の古道に接する法華山寺主要部跡を北曲輪群として、東曲輪群、南に位置する主郭を中心とした
曲輪群で構成される。さらに、東方に出曲輪群と呼ぶべき遺構が存在している。いずれにしても、桜谷墓地から
峰ケ堂までには寺院跡と思われる地形が連続し、一大寺院が存在したことが実感される。峰ヶ堂城は木沢長政が
河内で戦死してしたのち、記録にあらわれることはなく、法華山寺の遺構とともに風化していったようだ。
バブル期の桂坂ニュータウンの建設によって城址の南尾根曲輪群は消滅、いま開発は一段落しているようだが、
峰ヶ堂城城址は現代人のもつ破壊力を感じさせるところでもある
・峰ヶ堂城址の縄張り図(トレンチ45号から転載)
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