戦国山城を歩く
応仁の乱、永正の乱の激戦地─船岡山城


船岡山は、平安京の中心を通じる「朱雀大路」の延長線上の真北にあり、平安京造営の基準点になったといわれる。 その後、祭祀の場としても利用されたようで、山頂に残る磐座はその痕跡と考えられている。船岡山は小さな山だが、 頂上から京都一帯が眺望でき、中世になると戦略上の要地として山城が築かれた。そして、応仁の乱が勃発すると西軍の総帥山名宗全の 陣に近いこともあって、大内政弘・山名教之らが城をかまえ、攻め寄せる東軍の細川勝元勢との間で攻防戦を展開した。
十六世紀のはじめ、幕府管領の細川政元が暗殺されたのち、ともに養子である澄之と澄元が争い澄元が後継者となった。 ところが、澄元と一族の細川高国の間で抗争が始まり、以後、細川氏二流の乱が繰り返された。永正八年(1511)、 将軍義澄を奉じる澄元が、前将軍義稙を奉じる高国・大内義興連合軍を船岡山で迎え撃ち激戦となった。いまも、城址の一角に 「応仁・永正戦跡」の石碑が立っている。

・京都市街を見る、遠方には比叡山が…



北側から登る  応仁・永正の古戦場碑  見事な横堀  建勲神社(左)と主郭(右)への階段  主郭の船岡山三等三角点


山上には曲輪が散在する  主郭南を護る巨岩  主郭を見る  建勲神社参道脇の石碑
建勲神社本殿後方の神域には城址が眠っている

いま、城址は公園化されているものの、山上から山腹には曲輪跡、空堀跡がキレイに残っていて、その眺望とあいまって戦国の気分が 味わえるところだ。明治八年(1875)、城址東側に織田信長を祀る建勲神社が創建され、一帯は禁足地となってしまった。 神社後方の禁足地を鉄条網越しに透かし見ると、曲輪・空堀などが見事に残っている。常時開放は難しいだろうから、 予約制でもいいので年に何回か公開されるようになることを願っている。



曲輪跡の切岸  城址の空掘跡  空掘道を見る  見事な土塁跡  雑木に覆われた空掘道


主郭の石仏群  各所に石仏が祀られている
神社の神域には空掘・切岸・曲輪を隔てる横堀などがきれいに残っている(右3点)
・登山:2008年9月7日・23日

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