戦国山城を歩く
宇喜多氏に敗れ去った後藤氏の居城


JR姫新線林野駅を下車して、東南方向に「天」の字をかたどった山が見える。それが三星城址がかつてあった山で、三つの峰が連なっていることから三星山と呼ばれるようになったという。応保年間(1160ごろ)、当地の土豪渡辺氏が居館を築き妙見城と証したことが最初という。南北朝時代のはじめ、後藤康基が地頭職として入部して以来、後藤氏の代々が 居城とした。後藤氏は赤松氏、山名氏、浦上氏そして尼子氏と、ときの有力者の間をよく泳ぎきり、戦国後期の当主勝基は宇喜多直家の娘を室に迎えていた。そして、三星山全山を城塞化して美作に威勢を振るった。しかし、天正五年(1578)ごろより宇喜多氏と隙を生じるようになり、ついに同七年、宇喜多氏の攻撃を受けた。勝基はよく戦ったが、数に優る宇喜多勢 の前に力尽き、落城とともに後藤氏は滅亡した。
・JR 林野駅構内から城址を遠望


・ 滝川越しに城址を遠望 ・登城口の赤鳥居 ・居館跡を前方に見る ・居館跡の忠魂碑、その隣に勝基の墓がある ・居館跡から二の丸を遠望


・居館跡の虎口 ・山上の曲輪と土塁 ・いまも水を湛える井戸跡 ・二の丸を見上げる絶壁のすごさに驚き


・二の丸登山途中よりの展望 ・西の丸跡と土塁 ・居館跡近くの米蔵跡 ・明見三星稲荷神社

三星城へは明見三星稲荷神社の赤い鳥居が目印になる。鳥居をくぐって道なりに歩いていくと、後藤氏の居館跡に辿りつく。 主郭を中心に何段かの曲輪が連なり、主郭と米蔵跡の間の道が山腹から山上に展開する山城への登り道になる。登山道は 最近になって切り開かれたもので、本来の登城道は主郭から七曲に通じていたようだ。登山道を登っていくと、 新道開削によって崩された曲輪が連続する。「天」の字がえがかれた山が二の丸で、向かって左が本丸、右が三の丸という。 本丸方面に向かうと、いまも水を湛えた立派な井戸がるが、その向うは倒木が多く本丸探索を断念。ロープをたどって二の丸を 目指したが、こちらもあまりの急坂に途中で登頂を断念。不甲斐のない結果となったが、身をもって三星城の要害ぶりを体感した。


後藤氏
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