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戦国山城を歩く
赤松氏、播磨支配の拠点-城山城址
城山城は播磨国姫路を起点として因幡国鳥取に通じる因幡街道の觜崎宿を東方に見下ろす亀山山上に築かれた山城で、播磨国守護赤松則祐が文和元年(1352)ごろから十年以上の歳月をかけて築いたものといわれる。赤松氏は円心時代、赤穂郡上郡に白旗城を築いて本城としていたが、播磨統治には西方に偏りすぎるため新たに城山城を築いたようだ。遺構は南北550メートル、東西250メートルの規模で、多数の曲輪、堀切、土塁、横堀が残り、兵庫県下でも屈指の山城である。赤松氏は満祐のとき嘉吉の乱(1441)を引き起こし、この城山城で幕府軍を迎え撃って一旦滅亡した。その後、再興した赤松氏はさらに東方の飾磨郡に置塩城を新たに築いて本城としたため、
城山城は赤松氏本城としての機能を失った。
戦国時代、出雲の尼子氏が播磨に侵攻、城山城に陣を置いた。現在、山上に残る遺構の多くは、尼子氏時代に改修されたものともいわれる。尼子氏が播磨から撤退したのち、城山城は使用されることなく次第に忘れられていたようだ。幻の城となった城山城が発見されたのは1980年代のことで、発掘調査によって天目茶碗や備前焼、炭化米などが出土した。さらに、1988年に発見された古代山城の遺構は、古代史を塗り替える大発見として、地元紙の一面で大々的に報道された。城山城は古代から中世に至る、
壮大なロマンを感じさせてくれる城といえそうだ。
・新宮方面から城址を遠望
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