成立時期とその背景
『見聞諸家紋』の成立時期とその背景については、『日本史籍論集・下巻(岩橋小弥太博士頌寿祈念会編)』所収の
小泉宜右氏の論文「見聞諸家紋について」がある。小泉氏は収録されている諸家のうち、官職姓名の明記された人物の
卒年月日を克明に調査された結果、応仁末年(1468ごろ)から文明二年(1470)までの間に成立したものであろうと
推定されている。また、官姓名が記載された武将および被官人のほとんどが、応仁・文明の乱において、将軍義政を
奉じた東軍に属していることを論証されている。そして、『見聞諸家紋』は、東軍に参じるために上洛してきた
諸家の旗・陣幕等を見聞し、
それに幕府の評定衆・奉行人等諸家の家紋を加えて集録した応仁・文明の乱の副産物であったと結論づけられている。
そうしてみると東軍の総帥であった管領細川氏と一族その被官である四国・丹波の武士、播磨の赤松氏と被官、
近江の京極氏と被官、
筒井・越智氏らの大和武士の紋が収められている。一方で西軍方の総帥である山名氏と被官、西軍の有力武将であった
大内氏と被官らの紋も収められているが、圧倒的に東軍方のものが多い。また、応仁の乱の性格上、畿内で行動した武家が
多く収録されており、甲信越から東北、九州方面の武将の紋が少ないのは残念である。
『見聞諸家紋』の筆者に関しては、一説に足利義政期の政所執事代であった蜷川新右衛門尉親元であろうと
推定されている。親元は「一休さん」に出てくる「蜷川新右衛門」こと蜷川親当の子で、武家故実に通じ、
その日記『親元日記』は室町時代の歴史を知る貴重な史料となっている。応仁の乱当時を生きた幕府官僚であり、
『見聞諸家紋』の筆者としてはまことに相応しい人物の一人である。
・家紋:蜷川氏の「合子箸」紋
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