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●毛利元就を中心に。
●元就の父母 ●元就の兄弟 ●元就夫人と継室 ●元就の子供たち


 
●元就の父母

毛利弘元
豊元の長男として応仁二年(1468)生まれた。豊元が三十三歳で没したことから九歳で家督相続し、郡山城第九代城主となった。終生難局に立ちながらよく毛利一家の安泰と隆昌につとめたが、永正三年(1506)多治比猿掛城内で卒した。享年三十九歳であった。
弘元夫人
弘元の室は福原広俊の娘で、この二人の間に幸千代丸と松寿丸が生まれた。幸千代丸がのちの興元であり、松寿丸が元就となる。文亀元年(1501)、十二月三十四歳で没した。時に興元は九歳、元就は五歳であった。

→毛利元就を中心にした一族系図

●元就の兄弟

毛利興元
弘元の長男、明応二年(1493)生まれ。八歳で父弘元から本領以下を譲られた。父の没後家を継ぎ将軍足利義満に対し、代々の通り異心のない旨を誓った。その後、大内義興が将軍義稙を擁して上洛すると、これに従い、山城船岡山の合戦では殊勲を立てた。帰国後安芸の諸将天野興次ら八人と盟約を結び、互いに連絡して外侵を撃つべきを約束した。永正十三年(1516)酒害のために二十四歳で没した。
相合元綱
元就の異母弟。軍記類には少輔三郎元綱とも相合四郎元綱とも書かれている。郡山城近くの船山にいたが、元就の家督相続のとき、これに反対して元綱を擁立しようとした坂・渡辺一派の陰謀のために敗れ、元就相続のあと誅殺された。
北 就勝
元就の異母弟。はじめ出家して安芸国高田郡郡山手の常楽寺の住職となるが、のち還俗して北氏を称した。亨禄二年、元就に滅ぼされた国衆高橋氏の庶家北氏の所領であった高田郡北を相続したものと想像される。天文十三年十二月元春に対し、実子がいないため一期ののちは所領を譲与する旨の契約を行い、弘治三年(1557)八月死去した。
武田 某室
渋川兵部丞義正室
井上右衛門大夫室
吉川治部少輔室
井原常陸介元師室
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●元就夫人と継室

元就夫人
安芸山県郡新庄小倉山城吉川国経の娘。名前は明かではない。元就がのちに子供たちに与えた手紙などでは法名の妙久で呼んでいる。元就が二十七歳で本家を相続した時、既に長男の隆元が生まれていた。その後、長女五龍、次男元春、三男隆景が生まれ三男一女の母である。天文十四年(1545)四十七歳で没した。夫人の死に元就は大きな衝撃を受け、翌年には隠居し隆元に家督を譲ったほどであった。
乃美の大方
元就の継室。乃美弾正弘平の娘といい、小早川氏の一族であろうか。乃美の大方は、元就との間に、四男元清、七男元政、九男秀包の三子がある。慶長六年(1601)没。
三吉氏
元就の側室。三吉兵衛尉広隆、あるいは九郎左衛門の娘という。元就に奉仕後、井上就正に嫁したというだけで詳しい経歴は分からない。この三吉氏には、五男元秋、六男元倶、八男元康、上原元将室となった女の四人の子がある。天正十六年(1588)没。
中の丸(東の大方とも)
元就の継室。小幡民部大輔元重の姉というが、その出自は詳らかではない。乃美、三吉の大方よりも年上であったが、 子供がなかった。よほど才気に溢れた女性であったようで、元就に対しても身の廻りばかりか内助の功は勿論のこと、 家臣たちに対しても細かい心配りをしていた跡がみられ、元就が陣中から中の丸に宛てた手紙が数通残っているが、 親愛の情こまやかなものである。寛永二年(1588)山口で没した。
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●元就の子供たち

毛利隆元
 元就の長男として大永三年(1523)、安芸多治比猿掛城内で生まれた。元就二十七歳のときの子である。元就は当初尼子氏に属していたが、本家相続問題などからこれと離反し、大内氏に属することになり、天文六年(1537)隆元を人質として山口に送った。天文十年(1541)十九歳で帰国するまで、足掛け五年を山口で過ごした。
 天文十五年十二月、元就の譲りを受けて家督を相続した。同十八年四月には義隆の養女を夫人に迎え、二十二年一月、長子幸鶴丸(のちの輝元)が誕生した。さきに、同二十年九月、陶晴賢が反旗を翻し主君の大内義隆を殺害したため、厳島合戦となり、元春・隆景の二弟とともに晴賢を厳島に破り、これを討ち取った。
 永禄二年(1559)正親町天皇の御即位料を献納し、翌年元就を陸奥守に、隆元は大膳大夫に任じられ、菊桐の紋を授けられた。また幕府は隆元を相伴衆とし、安芸守護、ついで備中・備後・長門・周防の各守護を兼務させた。
 その後、九州に出征していたが、出雲の元就応援のため引き返し、出征の途次、安芸佐々部で和智誠春の響応を受けたが、間もなく発病し翌朝急逝した。永禄六年(1563)八月であった。享年四十一歳。
吉川元春
 元就の次男として亨禄三年(1530)郡山城中で生まれた。体格は極めて強健で、心身ともに円満な発達をとげた。天文十年、郡山合戦の時、十二歳で初陣して手柄を立てた。ついで十二年十四歳で元服し、兄隆元の偏諱を受けて元春と名乗った。
 天文十八年母の里方である吉川家を継ぎ、治部少輔、ついで駿河守、従四位下となった。以来、毛利宗家のために厳島合戦をはじめとして、山陰・山陽・四国・九州各地に転戦し、特に山陰方面攻略を担当した。元就没後、その孫輝元をたすけ、毛利氏発展に功績をあげ、弟小早川隆景とともに「毛利の両川」とうたわれた。
 毛利・織田両氏による高松の役ののち、天正十年(1582)家督を長子元長に譲り隠退したが、豊臣秀吉のたっての懇請で九州征伐に出陣、病を得て同十四年十一月小倉城で陣没した。五十七歳。
 元春は典型的な武将であるばかりでなく、出雲の陣中で『太平記』四十巻を書写したことは有名で、文化人でもあった。
小早川隆景
 元就の三男として天文二年(1533)郡山城中で生まれた。天文十三年竹原小早川家、さらに十九年沼田小早川家を継ぎ、小早川正平の娘を妻とした。兄吉川元春とともに宗家をたすけて、中国の大半と九州の一部を領する百二十万石の大大名に毛利氏を育て上げた。
 天正十年、高松の役で秀吉と講和した際、隆景が主として交渉にあたり、これから両者は深く交わるにいたった。同十三年秀吉の四国征伐に参加し、功によって伊予三十五万石を与えられた。ついで九州征伐の際の功によって伊予に替えて、筑前一国と筑後・肥前の各二郡を領し、筑前名島に築城して本拠とした。
 十六年京都に上り秀吉にあい、羽柴姓を許され、ついで従五位下、侍従に進み、さらに参議、正四位下、大老職と進み従三位、権中納言にまで累進した。また小田原の役や文禄の役に功があり、とくに文禄の役では立花宗茂らとともにみ明の将・李如松の大軍を破った碧蹄館の戦は知られている。
 文禄四年(1595)備後三原に隠退し、慶長の役には養子秀秋を出征させた。ところが同二年六月急病にかかり、三原城内で没した。六十五歳。隆景は黒田官兵衛とともに戦国時代きっての智将といわれており、世人は「楊柳」にたとえていた。
穂田元清
 元就の四男。兄の隆景とは十九歳も違い、輝元より二つ年上で信任が厚かった。天文二十年(1551)吉田生まれ。天正三年(1575)二十五歳で備中猿掛城主穂田元資の養子となった。元就の没後、毛利氏の備中攻略に当たり、矢掛城の守備を命じられ、備中経略の任についた。織田氏との対抗最前線に当たっており、勇猛な武将であった。
 高松の役のあと秀吉と和睦し、中山城を築いてそこに移った。同十二年に次男宮松丸(秀元)が宗家毛利輝元の嗣子となったため。元清はこれを連れて安芸桜尾城に帰り毛利姓に復した。輝元が郡山城から広島城を築いて移るとき、二宮就辰とともに広島築城の普請奉行を勤めている。  文禄の役には輝元に従って朝鮮に渡り、輝元が病気に罹ったときには秀元が代わって指揮をとったりしたが、秀元が召還されてのちは元清がその代理を命じられた。秀吉の虎退治の話は元清が命じられて二頭を生け捕りにした話で有名である。
 治部大輔、伊予守、従五位下に進み、輝元の信任が厚かった。慶長二年(1597)七月、四十七歳で桜尾城内で没した。  
椙杜元秋
元就の五男。天文二十一年(1552)吉田で生まれた。周防玖珂郡蓮山城主椙杜隆康は実子がないため元就に請うて元秋を養子とし、しばらく椙杜姓を称した。尼子氏の本城富田城が落城したのち、富田城在番となり富田氏を称した。天正の初め富田城の重要性から、毛利氏一族の城主を迎えたいとの要請により、城主となった。しかし、天正十三年(1585)五月城内で没した。享年三十四歳。
出羽元倶
元就の六男。弘治元年(1555)生まれ。石見出羽二山城主出羽元祐の養子となった。しかし、元倶は元亀二年(1571)八月、十七歳で没した。
天野元政
元就の七男。永禄二年(1559)生まれ。同十二年、天野元定の婿養子となり家督を相続した。以後、天野氏を称し元亀元年四月米山城に入城した。上月の陣に抜群の手柄をたてたほか、諸処の合戦に出陣した。慶長五年(1596)、讃岐守、従五位下に任じた。慶長十四年、長門萩で没。五十一歳。毛利八家のうちの右田毛利の祖である。
末次元康
元就の八男。永禄三年(1560)生まれ。出雲末次城主となり末次姓を称したが、天正十三年、兄の富田城主毛利元秋が没したため、その家督を継いで富田城主となった。慶長六年(1601)正月、摂津大坂で没。四十二歳。
小早川秀包
元就の九男。永禄十年生まれ。兄小早川隆景に実子がないため、養子となり小早川藤四郎元総と称した。高松の役ののち、秀吉方への人質となり上坂した。秀吉から寵愛され偏諱を与えられ秀包と改名した。そののち、輝元に子がないことから秀吉は北政所の甥木下秀俊を猶子として輝元の継嗣にとの話がでたとき、隆景は宗家を血縁の続かない他家から津ガスべきでないと、秀俊を小早川氏の継嗣とした。このとき、秀包がすでに養子となっていたが、一家を立てさせ、毛利姓に帰らせて終生父子の交わりを続けた。慶長六年三月、三十五歳で没した。
上原右衛門大夫元将室
元就の二女。母は三吉氏。
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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