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由利氏 ●ダイジェスト
抜き巴
(清和源氏/大中臣氏後裔?)


 由利十二頭の一といわれる由利氏の出自は正確には不詳である。伝によれば、大中臣良平が源義家に従って軍功を挙げ、由利半郡を賜ったのにはじまるとされる。良平は油理氏を名乗っていたようだ。しかし、『由利家系』によれば清和源氏の流れとみえる。
 由利氏で明らかな足跡を残しているものは、由利維平である。維平は由利八郎とも中八維平とも言われた。「泰衝の郎従由利八郎」と見えるように、奥州藤原氏に臣従して、由利支配を保っていた。文治五年、源頼朝は奥州征伐の進撃計画をたてた。奥州全体を直接支配地とし、直臣の武士団を配置して、支配体制の確立をはかろうとしたのである。
 この情勢に泰衝は将武士を分散して鎌倉勢を迎え阻止しようとした。このとき、維平は出羽口を田河・秋田らと警固していたが、比企・宇佐美軍と戦い、破れて捕えられた。戦後、頼朝は奥州征伐の論功行賞を行い、諸将に所領を与えて、それぞれの地頭職に補任した。このころ、維平も許されて由利の旧領に帰り、郡地頭として鎌倉御家人となったのである。
 維平のあとを継いだのは維久か。維久は和田の乱に際し、北条氏にあって鎌倉の若宮大路で戦った。しかし、かれの放った矢を敵方がとって射返した。その矢が、泰時の鎧に立ってしまった。これにより、維久を和田氏に与したと披露するものがいた。戦後、尋問が行われたが、矢に維久の名があり、窮するところとなった。時房の弁護もあったが、結局、所領を召し放たれた。
 維久のあと由利郡は加賀美遠光の娘に与えられ、彼女は兄の子大井朝光を家の跡取りとして迎え、その所領を譲った。以後、現地に小笠原大井の庶流が移住して経営にあったたようだ。この間、由利氏は小笠原の地頭支配のなかでも存在はしていたようだ。そして、頼久・国房など由利氏の名が散見するが、それらが由利の本流とどのように交わるのかは不詳である。
 南北朝時代のはじめ、康永二年(1343)九月の結城親朝注進状に由利兵庫介の名がみえる。これは南朝方であった親朝が尊氏の勧誘に応じ兵を挙げたときのものである。このとき兵庫助もこれに応じたのであろう。この南北朝争乱のなかで、小笠原や由利の後裔たちが次第に所領を固め、独立を目指して、いわゆる由利十二頭を成立させていくのである。
 由利政春は、西目に浜館を築き、全郡の旗頭と称した。しかし、対立していた鳥海弥三郎に急襲されて落城。鳴沢館を新たに築いて拠ったが、正中元年(1324)再び鳥海勢に攻められて落城、切腹したという。政春のあと、政久にいたり由利郡滝沢に領地を得て、滝澤に名を変えたとされるが定かではない。また政春から政久にいたる家系も諸系図によって整合しない。いずれにしても、政久は永亨二年(1430)滝澤根城館に住んで、姓を滝澤と改めたのである。以後吉子川中流の滝澤を支配した。
 戦国期になると、北の安東氏、東の小野寺氏、南の最上氏などの戦国大名の圧力を受けざるをえなくなる。しかし、間もなく豊臣秀吉の天下統一政権のなかに包摂されることになる。天正十八年、小田原陣に参陣した由利衆のなかに滝澤又五郎の名が見える。以後の太閣検地も無事しのぎ二千九百六十石を安堵された。慶長五年(1600)、関ヶ原の役では他の由利衆とともに東軍のために小野寺攻撃の一翼を担った。戦後、最上氏の配下となり、一万五百石を宛て行われた。元和元年、最上氏が改易されたことで政範は浪人し、のち六郷氏の家臣となった。
 幕末から明治にかけて有名な由利公正はその子孫と伝えられている。

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■参考略系図
    


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