下野国氏家を本貫とする氏家氏の一族。氏家氏は宇都宮氏の分かれである。南北朝期までには、足利一門の斯波氏の被官となり、斯波氏に従って越中国などで活躍していることが確認されている。陸奥国にも斯波氏とともに来たもので、建武四年、斯波兼頼の代官として、氏家道誠が南奥で活動し、延文元年と同六年には、氏家彦十郎と同伊賀守が斯波直持から宮城郡余目郷内ほかの遵行を命じられていることが『留守文書』にみえる。 以後、斯波氏の後裔大崎氏に仕え、戦国時代には玉造郡岩手沢城主であった。岩手沢は一名岩手山ともいい、封内風土記に「岩手澤城は山上にあり、俗に岩出山と云う」とみえ、観蹟聞老志には「この名、旧名を岩手澤と云う。大崎家臣氏家弾正なる者の居館なり」とある。これによって氏家氏は岩手澤氏とも称していた。 さらに『伊達世臣譜略』によれば、「氏家は姓藤原、その出自詳ならず、先祖又八郎詮継、貞和五年、尊氏将軍の命を受け、大崎監司となり、来たりて玉造郡岩手澤城に住す、子孫遂に大崎家臣となる」と記されている。 戦国後期の氏家隆継は氏家直益の嫡子に生まれ、玉造郡惣領氏家氏八代を継いだ。三河守を称し、累代の岩出沢城を継承した。大崎氏の執事を務め宿老。大崎氏家中における反主流派として主家に反乱すること数回に及んだ。のち、家督を嫡子吉継に譲り、三丁目城に隠棲する。岩出沢城は天正元年(一五七三)に隆継が築城したとも言われるが、同地には先代直益の頃から移住したと見られている。 隆継の跡を継いだ吉継(直継?)は弾正忠を称した。天正十五年から同十六年にかけての大崎内乱は、新井田・伊場野の小姓二人の確執が原因であったが、その反主流派の背景となったのが弾正吉継であった。かれは、大崎家内の伊達派の中心人物でもあり、天正十五年、自派の形勢不利と見るや伊達氏に救援を求め、内訌を伊達・大崎の合戦にまで連鎖拡大させた。翌年正月の、いわゆる大崎合戦の原因をつくった張本人であった。豊臣秀吉の奥州仕置によって大崎氏滅亡後は、伊達氏に仕えたが天正十九年に病没し、氏家氏嫡流は滅亡した。 江戸時代、伊達家中の氏家氏は、隆継の子直継の代で断絶した氏家氏を再興したものである。すなわち、直継に娘があり、富田守実に嫁いで守綱を生んだ。守綱の娘は伊達忠宗の小姓として仕えた中里清勝に嫁ぎ、伊達政宗は清勝に氏家の苗跡を継がせたのである。以後、清勝は氏家主水と改めて、万治三年に1,851石の禄となり、子孫連綿して明治維新に至った。 ←氏家氏へ |