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内島(内ケ嶋)氏
●ダイジェスト
菊 水
(橘氏族楠木氏支流)


 山津波で消えた帰雲城主として有名な内島(内ケ嶋とも)氏がある。内島氏は南朝の忠臣楠木正成の弟、正氏の末裔といわれている。北朝との戦いに敗れた楠木正氏は、天然の要害を求めて信州に逃れ、松代に落ち着いたという。その子の正季は楠木の姓を改めて内島を名乗ったとされる。しかし、この説は信用し難いものであることは言うまでもないだろう。
 南北朝合一の後、内島氏は足利家に仕えたようで、明徳の頃、内島季氏というものが幕府の奉公衆であったこたは確かなようで、季氏の子とされる為氏が寛正元年(1460)将軍足利義政の要請で、信州松代から飛騨白川郷に移ることになった。
 当時、飛騨一円は一向宗の地盤であり、為氏は入部当初、一向宗徒と争いを繰り返したが、その不利をさとると一向宗と妥協して縁を結び、領土の安泰をはかると、白川郷の牧戸に「牧戸城」を築いた。さらに五年後の寛正六年に、白川の保木脇近くの帰雲山麓に「帰雲城」を築いて、これを本城とした。そして、加賀・越中一向一揆の後ろ楯となって活動したようである。
 『斐太後風土記』には、「後花園天皇の御代(1428〜64)信濃国松代住人楠氏の末葉なる内島将監為氏、足利義政将軍の命を奉じて白川に来たり、その威勢を振るい、村々を兼領し、寛正のはじめ、牧戸に城を築き住居、漸々村々の随従に依りて、後亦保木脇村帰雲山に城を築きて勢強く、小島郷はさら也、越中国砺波郡川上領をも押領せり、家臣には山下、尾神、川尻らの勇士ありて、破竹の勢いになりぬ」と、家臣にも恵まれて、勢いさかんだったことが記されている。

戦国時代を生きる

 内島氏は帰雲城、牧戸城のほかにもう一ケ所、萩城を持っていたという。戦国大名は、外敵に備えて、親城のほかに支城、もしくはそれに代わる砦や館を持っていたが、飛騨一国で三万数石とされる地で二つの支城をもっていた内島氏にはよほどの経済力があったと推定される。これは、当時白川を含む飛騨地方が金・銀・銅の鉱物資源に恵まれた鉱産地帯であったことが背景にあった。内島氏が為氏の代に信州松代から白川郷に移ったのも、実は将軍足利家の鉱山奉行職としてであったという説もある。内島氏は三つの城と鉱物資源によって、その領国を安泰に維持経営していったのであった。そして、氏理の頃になると、財力はもとより武力も充実して内島氏は押しも押されもせぬひとかどの領主、大名に成長していったのである。
 永正十七年(1520)、越後の長尾為景が越中へ進出し、一向一揆を攻撃してきた。本願寺は飛騨の照蓮寺と連携する内島雅氏を頼み、越中への出陣を要請してきた。内島氏はこれに応じて出兵したが、かえって、大敗し、雅氏の弟と思われる兵衛大夫らが討死した。
 天文八年(1539)雅氏が没し、同年九月に氏利が美濃郡上郡に出兵、東・遠藤氏を攻めてその地を占領した。一向宗門徒の鷲見・畑佐氏を救うためであった。しかし、近江の六角氏がこれに抗議したため、氏利は撤退せざるを得なかったのである。
 天正四年(1576)氏理が越前への出兵の留守を狙って、帰雲山城に迫った上杉謙信が、急報で氏理の馳せ帰った知らせを聞くと戦わずして兵を還している。翌年には飛騨の守護大名姉小路(三木)自綱が戦いを挑んできた。凋落傾向にあった姉小路氏は、飛騨一円を手にいれて、勢力を挽回しようとしたのであった。これに対し、氏理は一進一退の戦を続け、翌年夏、姉小路はあきらめて兵をおさめた。
 天正十年、織田信長が本能寺で殺害され、天下の形成は一変した。そして、豊臣秀吉が山崎の合戦で明智光秀を倒し、大きく天下取りに前進した。これに対して、織田信長の子信雄は徳川家康と同盟して、秀吉に戦いを挑んだ。小牧・長久手で秀吉と織田・徳川連合軍の対決の知らせを聞いた富山の佐々成政は秀吉に対して兵を挙げた。

内ケ島氏の滅亡

 佐々氏と同盟を結んでいた内島氏理は佐々応援のために、越中に出兵した。この留守を狙って豊臣方の金森長近が白川郷に侵入、内島氏の家老川尻氏信が守る牧戸城を攻めた。この報に接した氏理は急遽帰国したが、すでに牧戸城は陥落していたばかりか、領民は金森氏は姉小路氏を倒して、すでに着々と高山城へ本城を築きつつあった。戦っても利のないことを覚った氏理は金森氏に降伏した。
 そして、領土を削られたものの、無事難局を切り抜けた氏理は一族とともに帰雲山城に帰還したのであった。そして、まずはめでたいということで祝宴を開くことになったのである。ところがその夜、天正十三年(1585)十一月二十九日、稀に見る大地震が起こり、内島氏およびその一族は、居城帰雲山城の倒壊によってことごとく埋没し、もろともに滅亡してしまったのである。この地震は大坂でも壊家数百、京都では三十三間堂の仏像六百余が倒れたと記録されているほどの、大地震であった。

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