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天童氏 ●ダイジェスト
二つ引両*
(清和源氏斯波氏流)
*不詳だが、最上氏・里見氏との関係から二つ引両紋を使用したと想像される?


 天童氏は、斯波兼頼の子直家が次子頼直を天童に封じたのを始めとする。
 しかし、南北朝期、成生庄に勢力を扶植していた里見義景がおり、かれには実子がなかったことから斯波家兼の子にして兼頼の弟にあたる義宗を養子にしたという。したがって、天童氏はあくまで里見氏であり、斯波義宗が里見氏の養子になったにすぎず、天童里見家は斯波家の庶族となったことにはならないのである。
 最上氏は庶子たちを各地に分封し惣領制で支配権を固めていった。『最上系図』によれば、斯波最上直家は頼直・氏直等の庶子を天童・黒川・蟹沢・泉出に封じた。その子満直も庶子を中野・大窪・楯岡に配置している。そして、天童に封ぜられた頼直について「天童殿」「天童と称す」等と注記され、頼直が斯波最上氏の庶族として天童に封ぜられたように記されている。

天童氏の出自異説

 ところが、天童氏をもって藤原氏とする説があり、頼直は藤原系天童氏の養子となったとするものである。しかし、この説は不明な点が多く、信じることが難しい。おそらく、頼直はさきに里見氏を継いだ義宗に子がなく、その養子として迎えられたものであろう。頼直は単に分封された最上氏の庶族ではなく、里見氏の地盤を受け継いだとみるのが妥当なようである。
 宝幢寺本『最上氏系図』には頼直の長男頼勝に注して「里見修理大夫」とし三男満長に「上ノ山殿、里見兵部大夫」四男頼高に「東根殿、里見氏」とそれぞれ注されていることからも、天童氏は里見氏の家系を襲いでいることはほぼ明確であろう。とはいえ、二代も続けて養子縁組みが行われれば族的結合も深まり、最上氏の惣領制的武士団の一翼を担うことも多かっただろうが、天童氏は他の最上一族とはちがって特異な存在であったのだろう。
 頼直は、永和元年(1375)成生楯から天童城に移ったとされる。かれはまたその子満長を上山、頼高を東根、頼種を鷹巣にそれぞれ分封した。これは特記すべきことで、他の最上庶族では、子息たちを各地に分封することはなく、天童氏だけがこれを成しえたのは、里見氏の所領を受け継いでいたからであろう。
 室町期、幕府と古河公方の対立が続き、寛正元年(1460)、幕府は関東・奥羽の諸将らに命じて成氏討伐しようとした。この時、最上義春とともに天童頼基にも成氏討伐の御内書が出されている。『余目氏旧記』でも、大崎氏から最上氏と同格に扱われている。

戦国期の天童氏

 戦国期、山形盆地に伊達氏が侵入した際、永正十七年に天童頼長は伊達稙宗と戦い、翌年には、伊達方に協力した立石寺を焼討ちしている。また、天童氏は、天童・延沢・飯田・尾花沢・楯岡・長瀞・六田・成生の「最上八楯」の中心として、国人一揆を形成し、最上氏や伊達氏に対抗していた。
 このころ、東北の大名家においては惣領制が崩れていき、嫡子単独相続がなされるようになった。この結果、庶子は嫡子に臣従しなければならなくなった。そこで、誰が嫡子になるかが問題となった。最上氏においても義光が長男であったが、父義守は義時(義保)を偏愛していて、これを嫡子にしようとしていた。ここに義守・義時と義光との家督相続をめぐる争いが生じ、最上家中は二派にわかれて抗争した。このような内紛はまた、近隣の諸大名が干渉戦争にうって出る好機ともなった。
 この最上氏の危機は宿老氏家伊予守の奔走により、一応の解決をみた。すなわち義光が家督を相続して山形城主となり、弟義時は中野城主となった。しかし、義時は家督を断念せず、義光もまた一族・国人衆に対する統制を強め、領国化を強行したのである。これに反発した一族・国人衆は、中野義時を擁立して蜂起した。さらに、義光の不遜な態度には父義守も怒り、伊達輝宗に救援を頼んだ。そして、天正二年(1574)正月、最上の乱が勃発し、天童頼貞は義守派に与してその急先鋒として戦っている。また、『伊達輝宗日記』などを見ると、天童軍は伊達氏と連絡を取り合って作戦を進めており、義光と最も激しく抗争していたのは、最上義守でも中野義時でもなく、まして他の最上一族や国人衆でもなく、天童頼貞であったことがうかがわれるのである。
・天童氏代々が拠った舞鶴城祉
 その後、戦線は膠着状態となり、和議が持ち上がったが、義光に対する徹底抗戦を主唱する天童頼貞は同調しなかった。結果、何回か和平交渉が行われ、主戦派の頼貞も大勢には抗し難く、和議が成立するかに見えた。しかし、義光は和議を以て自己に対する完全屈服とみなしていたことから、頼貞らは激怒し和議は決裂してしまった。
 当時、最上の大名領国制はまだ確立しておらず、和議の主役であった白鳥長久らも紛糾した最上の政局を収拾して、最上の政界の主導権を握ろうとしていたのである。からは、中央の政局にも関心をはらい、天正五年には、義光に先だって織田信長に直礼し、独立した戦国大名たらんとしていた。まして名門里見氏の伝統をひく天童頼貞がやすやすと最上義光に臣従することは考えられず、かれもまた領国制を強化し、戦国大名への途を急進していたのである。まさに最上氏とは、不倶戴天の敵となっていたのである。

天童氏の没落

 強勢を誇った天童里見氏であったが、頼貞の子頼久(頼澄)の代、最上義光の攻撃により天童城は落城、天童頼久は奥州への逃亡を余儀なくされたのである。
 『奥州永慶軍記』によれば、天童城はあたかも山形城を見下ろすかのように立っていたことから、義光の不快をまねき天童討伐を決意させたとある。そして、最上義光は寒河江・谷地をはじめとした十二楯を手にいれ、残るは天童城ばかりとなった。天童氏は最上八楯の救援をえて、堅城天童城に拠っており、最上義光の力をもってしても一気に攻め落とすことは出来なかった。
 そこで、義光は一時撤兵して、最上八楯の切り崩しに取りかかった。なかでも延沢能登守の働きが目覚ましかったことから、延沢氏の懐柔を図った。そして義光の娘を延沢の嫡子又五郎に嫁がせ、最上と延沢の和議が成り、延沢は義光に臣従するようになった。こうなると、天童八楯の結束も乱れ、ついに天童氏は孤立するに至ったのである。
 これを見て義光は大軍を発し、天童城攻略を断行した。ここにいたって、天童氏の重臣のなかにも最上氏に内応するものも続出し、守備兵も以前より少なくなっており、ついには最上氏の攻撃の前に落城。天童地方に勢力を振るい、最上氏と対抗した天童氏ではあったが、ここに没落した。
 先述のように、落城後、天童頼久は母方の国分氏を頼って奥州に逃れた。そして、文禄年間に伊達氏の家臣となり、準一家に列せられ餞三百石を給された。男子のなかった頼澄のあとは留守政景の次男が入り、子孫は伊達家臣として存続した。

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