但馬国城崎郡田結庄を本貫とする中世豪族に田結庄(荘)氏がいた。田結庄は「たいのしょう」と読み、戦国末期には山名四天王の一人に数えられた。出自は桓武平氏であったというが、その世系については詳らかではない。『田結庄系図』によれば、桓武天皇の皇子葛原親王の後裔とみえ、七代後の越中次郎兵衛盛継は源平合戦に敗れ、城崎郡気比に隠れ住み、のちに捕えられて暗殺された。しかし、その子の盛長は一命をとりとめて田結庄に住み田結庄氏を称したという。 盛長はその後、樋爪郷宮井に移り住み、宮井太郎兵衛尉盛長と称し『但馬国太田文』にも、同郷公文職、大庭荘下司職を有していたことが知られる。その後、盛長の子盛行がふたたび田結庄に帰り、ふたたび田結庄氏を称したという。 左近将監国盛は但馬守護山名時熙に仕え、その重臣となった。子重嗣は山名持豊に従って「嘉吉の乱(1441)」に際して播磨国に出陣したと伝えるが、それを裏付ける史料はない。 「応仁の乱(1467)」以前の但馬で守護山名氏に従う諸将としては、垣屋・太田垣・八木・田結庄・塩冶・篠部・上山・下津屋・西村・赤木・三方・三宅・藤井・橋本・家木・朝倉・宿南・田公の諸氏が数えられている。 田結庄氏で明確な裏付けを得るのは、戦国時代の左近将監是義で、是義は愛宕山に鶴城を築いて居城とし、太田垣輝延、八木豊信、垣屋光成らと但馬を四分して勢力を広げた。やがて、但馬に出雲の尼子氏が勢力を伸ばしてくると尼子氏に味方した。 その後、織田信長の天下統一の過程で但馬は、織田党(山名祐豊・田結庄)と毛利党(垣屋・八木・太田垣)に分かれた。山名祐豊は天正三年(1575)春、毛利氏と同盟しが、田結庄是義は織田党色を鮮明にし、竹野轟城主垣屋豊続との対立が熾烈化した。そして十月、織田方=田結庄氏と毛利方=垣屋氏との間で、代理戦争ともいわれる野田合戦が起こった。
野田合戦と、田結庄氏の没落 野田合戦は田結庄是義の属将・栗坂主水の海老手城が垣屋豊続・長越前守らに略取され、その救援を是義に求めたことに始まる。是義の援軍は一時海老手城を奪回するかに見えたが、垣屋の援軍に阻止されて失敗し、結局野田での野戦となった。 野田は湿地帯のため、足中(小さなわらじ)をつけた垣屋勢に分があっただけでなく、小田井神社方面から繰り出した垣屋の別働隊の追撃もあって、田結庄軍のうち鶴城下に帰着した者はわずか十六名であったという。 野田合戦の様子は軍記物に記されているばかりだが、天正三年十一月、八木豊信が但馬の情勢を吉川元春に報告している中で、「田結庄において、垣駿一戦に及ばれ、勝利を得られ候間、海老手の城今に異儀無くこれをもたれ候、御気遣い有るべからず候」と記されており、その事実は裏付けられる。 この合戦によって垣屋豊続は但馬を完全に毛利党に統一し、毛利氏の対織田防御ライン(竹野〜竹田)を構成する繋ぎの城として、鶴城・海老手城の両城を確保した。一方、野田合戦に敗れた、田結庄氏は勢力を失い没落していったといわれる。 【参考資料:兵庫県大辞典など】 ■参考略系図 ・詳細系図は不詳である。 |