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小代氏 ●ダイジェスト
団扇に三つ盛亀甲*
(武蔵七党児玉氏支流)
*団扇に四つ目結ともいう。


 小代氏は武蔵七党児玉党の入西資行の次男遠弘が、小代郷に住して小代を称したことに始まる。小代郷は現在の東松山市正代から坂戸市北部にかけての地域で、都幾川・越辺川にはさまれた低地に突き出した高坂台地と越辺川流域の低地に広がるところである。
 遠弘の子行平は、承元四年(1210)三月、養子俊平に勝代郷屋敷堀之内・吉田・南赤尾・越辺村などを譲っている。そして、この譲状によって小代氏の本領の様子がある程度知られるのである。屋敷堀之内は、高坂台地先端に近いところで、深さ2.5mの空堀と高さ4mの土塁が確認され、屋敷跡をおぼしき遺構があるとみられている。これらの遺構からして、小代氏の所領が一望に見渡せる場所といえる。
 武蔵七党系図によれば、俊平は吉田を称したとあり、行平の養子となる前は、吉田に住していたのかも知れない。そして、俊平の二男俊光は吉田村に居住して、以後、吉田を称したようである。
 俊平の長男重俊の子重康は、北条執権時頼が三浦氏を滅亡に追い込んだ「宝治の合戦」の功により、肥後国玉名郡野原荘地頭職に補された。そして、文永八年(1271)に蒙古襲来に備えるために肥後国の領地へ下向することを命じられ、文永十二年までに重康以下の兄弟が赴いたと思われている。同時に、薩摩国阿多北方地頭職二階堂氏も下向を命じられている。関東後教書は小代・二階堂氏のもの二点しか残っていないが、鎮西に所領をもつ多数の東国御家人が、下向を命じられたことであろう。
 重康の九州下向に際して、重俊は小代郡に残り、弘安四年に没したことが知られる。武蔵に残った小代氏には、重俊の弟俊光の吉田氏がいたが、元応元年(1319)から元徳三年(1331)にかけて、小代伊行が小代郷国延名田在家を越生忠親に沽却している。このことから、鎌倉末期には、武蔵小代氏には衰退の兆しがみられる。

肥後に下った小代氏

 一方、肥後国に下向した小代氏は、蒙古襲来を契機に肥後国野原荘に移住・定着して、所領経営を行った。そして、『児玉系図』によれば、重康兄弟は野原荘に移住後、政平は益永、泰経は荒尾、資重は一分にそれぞれ分かれて居住したとある。
 蒙古襲来という未曾有の危機を脱した鎌倉幕府ではあったが、その後の論功行賞において役で活躍した武士たちを満足させることができず、ついには、武士たちの鎌倉幕府に対する信頼を失墜させるに至ったのである。
 そして、後醍醐天皇により、幕府は倒され建武の新政が始まるが、時代錯誤な政治を嫌った武士たちは足利尊氏のもとに結集することになる。そして、後醍醐天皇に反旗を翻した尊氏は、新田・北畠軍と戦い敗れて九州に下った。このとき、小代重康の孫重峯は子息重宗を尊氏の許に馳せ遣わし、重峯自身は九州から東上した尊氏に従軍して近江国坂本などに転戦、高師直らの証判を受けるために軍忠状を作成、そこで彼は「武蔵国小代八郎次郎重峯」と名乗っているのである。
 以後、南北朝時代における肥後小代氏は筒ケ岳城を拠点として、北朝方として活躍し、南朝方の菊池氏らと戦ったことが軍忠状によって知られる。そして、南北朝時代以降、肥後国人として成長していくこととなるのである。そして、応永十七年(1410)重政.広行は幕府から伊倉荘を与えられ、伊倉港を根拠地に軍事・貿易に活躍した。

戦国時代の小代氏>

 戦国時代を迎えると、衰退する肥後守護菊池氏に仕え、忠節を尽くしたが、重忠の時代の天文三年(1534)菊池氏は断絶した。重忠は肥後国玉名郡筒ケ嶽城主として大友義鑑に従い、天文九年(1540)の菊池義武・相良・名和氏らの南部衆との合戦において、肥後北部の国人らと参陣。緑川下流の犬淵の合戦で、三月十八日に討死にした。
 重忠の子実忠は、父が討死した天文九年(1540)家督を継いだ。実忠も大友義鎮(宗麟)に属し、同十九年、菊池義武が隈本城に入り、肥後の反大友勢力を糾合した際、大友方として筒ケ嶽城に籠城して、肥後・筑後の義武勢力を分断。隈本城落城の要因となった。その間における軍功により大野荘など千三百町の所領を安堵されている。
 しかし、天正六年(1578)、宗麟が島津氏と戦って敗れると、肥前の龍造寺隆信が北肥後に進出し、親忠は敗れてその軍門に降った。ところが、隆信は天正十二年、薩摩から北上した島津氏との合戦においてまさかの敗戦を蒙って討死したことから、小代親泰は島津氏に降伏した。
 やがて、全国統一を目指す豊臣秀吉が九州征伐に乗り出し、島津氏は秀吉の大軍の前に降り、肥後の新領主として佐々成政が入国した。小代氏の所領は成政に安堵されたが、肥後国人一揆によって成政は失脚、切腹したことから、肥後北部の新領主として加藤清正が入国する。ちなみに南部は小西行長が領した。
 そして、清正によって小代親泰は四千三百余石を宛行われ、芦北郡津奈木城代に移され、小代氏による三百三十年余の野原荘支配は終わりを告げたのである。

【参考資料:長洲町史/小代氏関係史料/よみがえれ小代武士団(国武慶旭氏著)埼玉県史・熊本県大辞典ほか】

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■参考略系図
・『系図綜覧-武蔵七党児玉氏系図』『小代氏関係史料』などから作成。
 


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