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島崎氏
立 波*
(桓武平氏大掾氏族)
*源平姓氏・家紋400大事典(1984/12歴史読本臨時増刊所収:能坂利雄氏監修)による。


 常陸大掾氏の一族である行方宗幹の次男高幹が行方郡牛堀町島崎の地に居住して島崎氏の祖となった。
 乾元元年(1302)、重幹の時に鹿島大使となり、鹿島郡へ進出する。
 南北朝内乱では北朝に属し、小田氏らと争う。利幹は名を安定と改め、応永五年(1398)尹良親王を擁した桃井和泉守を丸山に攻めており、応永二十三年(1416)の上杉禅秀の乱では鎌倉公方足利持氏に従い、鎌倉でその警護について戦死している。
 大永五年(1525)、忠幹の子利幹は鹿島氏の内訌に乗じて鹿島氏を攻め、鹿島郡をほぼ領有する。天文五年には玉造に玉造宗幹を攻め、行方郡をもほぼ制圧した。古河公方足利晴氏に対抗して佐竹氏と結んだ。
 その跡を継いだ氏幹は元亀元年(1570)、烟田氏を攻略し、天正九年には江戸重通とともに鹿島氏を撃った。その子儀幹は、天正十二年に麻生城を攻略し、里見義弘の弟義政を井関氏と改めて城主とした。同十七年には小高城を攻めて坂氏兄弟を戦死させている。
 天正十九年、儀幹は小田原攻めに参陣しなかっため、佐竹義宣によって常陸太田城で誘殺され、島崎城は廃城となり島崎氏は滅亡した。家臣の多くは島崎・上戸・潮来・延方などに土着して豪農となった。
 『新編国志』に「島崎、行方郡島崎村より起こる。行方景幹の子 高幹、二郎と称し、島崎に居る。因りて島崎氏となる。二子 政幹、光幹と云う。政幹、小太郎と称す、その子 長幹、その子 忠宗、その子 重幹、大炊助と称す。乾元元年、鹿島大使たり。その子 吉幹 左衛門尉、その弟 利幹継ぎ、更に安定と改め彦四郎と称す、また大炊助たり。応永二十三年、上杉禅秀 足利持氏を襲うや、持氏逃れて佐介に走る。安定など衛護す。この月没す。蓋し、戦死せしならん。その子 長国、尾張守たり。文明二年、寺を創して大興山長国寺と称す。二子 忠幹、日精と云い、忠幹は、左衛門尉、兵庫頭と称す。その子 利幹、大永五年、鹿島義幹、嬖臣を用い、臣民その苛虐に苦しむ。利幹 為に義幹を逐う。天文五年、玉造宗幹と戦う」と。

●大掾氏の家紋─考察



■参考略系図
    


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