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下総国分氏
九 曜
(桓武平氏千葉氏族)


 国分氏は、千葉常胤の五男・胤通が下総国葛飾郡国分寺領を領して、国分五郎を称したことに始まる。頼朝の挙兵時には、胤通の弟胤頼と甥成胤が国分寺領を管轄していた下総国目代・平重国を討ち取ると、胤通は国府に入って守衛を任された。常胤は頼朝を市川の津に迎えると国府に案内し、嫡男・胤正はじめ胤通など兄弟六人と嫡孫の成胤を謁見させている。その後、胤通は建久元年(1190)、頼朝の上洛に随兵として従っている。
 胤通の嫡子・常通は国分に残り、弟の大戸親胤・村田有通・矢作常義は、それぞれ利根川沿いの大戸庄内の「大戸郷」「村田郷」「矢作郷」を領して郷名を称した。これらの土地は大須賀氏、神崎氏、東氏領とそれぞれ隣接し、国分氏は彼ら千葉一族と関わりをもちながら発展していった。
 国分胤通の六男・常義が香取郡大戸庄矢作村を領して「大戸矢作領主」となった。この流れが実質的に国分氏を代表する家となるが、常義のころは兄・常通が惣領であったと考えられる。兄・常通の流れは国分氏の名字地・下総国国分寺領をも支配し「国分寺本主」とされている。一方で他の兄弟と同じように父・胤通が手に入れた香取神領・大戸庄内の地頭職でもあり、南部の松沢庄も支配地としている。
 常義の嫡子・胤実は、常義の跡を継いで大戸庄矢作村を支配し、仁治二年(1241)の千葉介頼胤の家督相続に際してはその後見人となり、千葉本宗家を支える重職に就いている。そして、子・胤長はのちに一族・大戸河国分氏の娘をめとったと思われ、大戸河氏が領していた所領を併合。大戸河氏は子・胤村が「継承していくことになったようだ。
 胤長の嫡子・泰胤は『千葉大系図』によれば「国分矢作惣領」と記されていることから、同時代に記されている常通系の「松沢惣領」の関戸朝綱に対比しているとすれば、矢作系国分氏・松沢系国分氏がそれぞれ惣領制を敷いたと考えられる。

中世の争乱

 泰胤の子・胤氏は、鎌倉幕府滅亡ののちは足利氏に属し、嫡男の胤詮とともに活躍している。次男・盛胤は奥州の所領に下って奥州国分氏の祖となった。胤詮は叔父の胤任・氏胤とともに、大須賀宗正を筆頭とした千葉介満胤の「後見人」に就任していた。また、胤詮は鎌倉建仁寺から大航慈船和尚を矢作村の大龍寺に招き、ここを国分氏の菩提寺としたと伝わっている。
 胤詮の子・忠胤は上杉禅秀の乱(1454)に際し、千葉介満胤に従って禅秀方に味方したが、その後、幕府の命を受けた駿河守護・今川範政が鎌倉公方・足利持氏を援けて攻撃をかけてきたため禅秀勢は敗れ、忠胤は千葉介満胤らとともに足利持氏に降伏した。
 忠胤の子・憲胤は享徳三年(1454)十二月、鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺する事件が起こったために、将軍・足利義政は成氏追討を上杉氏に命じ、千葉介胤直も成氏の非道をうたって上杉方に参陣。憲胤も胤直とともに上杉方に加わった。しかし、千葉氏重臣の馬加康胤・原胤房らは成氏に味方したため、憲胤も彼らとともに行動したようである。胤直は康胤・胤房らに攻められて自害したが、国分氏は生き残り、憲胤の子之胤は康胤の孫孝胤に仕えている。
 文明十一年(1479)、太田道灌が下総に攻め込んできたとき、千葉介孝胤は原・木内など重臣らを引き連れて佐倉から武蔵方面に軍を向かった。これを迎え撃ったのが、太田道灌と武蔵千葉氏の当主・千葉自胤であった。道灌・自胤らは武蔵の諸将を率いて下総国境根原に陣をはり、ここで激戦が行われた。これを「境根合戦」という。戦いは孝胤の敗北で終わり、佐倉城の前衛基地・臼井城に逃れた。
 道灌は臼井城に弟資忠を派遣し、千葉自胤を上総へと派遣した。臼井城主・臼井俊胤は一計を立てて、図書助を臼井城内に誘いこんでこれを討ち取り、太田勢に追い討ちをかけてこれを穿滅した。別動の自胤は下総各地の城を陥落させたが、太田勢の本隊が壊滅状態と聞き、臼井城を攻めることなく武蔵へと帰った。この戦いで、国分之胤は臼井に援軍をだして太田勢と戦っている。

乱世に身を処す

 永正十四年(1517)、陸奥国を放浪していた古河公方・足利政氏の次男・空然は、上総の武田如鑑入道の支援を受けて甲斐国で還俗。「足利左兵衛佐義明」と名乗って挙兵した。上総武田如鑑は以前から下総への足掛かりとして千葉氏筆頭家老原氏の居城「小弓城」を狙っていて、義明を総大将として小弓城主に攻め寄せた。国分胤盛は城主・原胤隆の救援を千葉介勝胤に命じられ、小弓へと向かった。
 小弓城主胤隆は、一族の原友幸を総大将として義明軍を迎え撃つが、衆寡敵せず、重臣の高城胤吉の援軍の到着を待たず城は陥ち、胤隆は自害。友幸も敵中を突破して高城氏の籠る根木内城へと逃れた。おそらく之胤の援軍も間に合わなかったのだろう。
 胤之の子胤相は、居城の矢作城を幾度となく安房里見氏の将正木氏に攻められ、永禄七年(1564)には米之井城主木内胤倫に援軍を請い、これを撃退する事に成功したが、その翌年にふたたび正木氏が攻めてきたため、ついには防ぎきれずに落城。国分氏の重臣伊能景信は子の景久を主とともに脱出させ、自らは戦死したと伝える。とはいえ、もう一つ説があり、天正十四年(1584)、国分氏に嗣子がなかったため、大須賀氏に養子を請い、伊能信月を後見人とした。そこに正木氏が大軍を率いて迫ってきたため、自身の子と主・竹若丸をひそかに城を脱出させて、大須賀氏を頼らせ、信月は戦死したとも伝える。
 ただ、天正三年(1575)年に正木氏と戦った矢作城主に国分胤憲の名が見える。ついで、天正九年(1581)年には、大戸川内の浄土寺を再建している矢作城主・国分胤政が見える。先の説によると天正十四年に国分氏には嗣子がなく、大須賀氏から養子が入ったことになっているが、国分胤政には何人か子がいて、鹿島氏に養子を出すほどであった。天正九年直後に胤政が亡くなったとしても、別に養子を迎える必要はないわけでいささか疑問とせざるをえない。あるいは、有力者である大須賀氏から養子を迎えて正木氏との戦いを有利に進めようとの考えだったのであろうか? 胤政に子があったことを裏付けるものとして、鹿島治時の娘が胤政の室として入り二男胤光を生んでいるのである。そして、胤政は鹿島氏の内紛の一方を支援していることが、鹿島氏の系図から知れるのである。
 天正十八年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐が開始される。矢作城は徳川家康の軍勢によって開城され、国分氏は常陸鹿島神宮惣大行事の養子となって同職を継いだ流れ、水戸徳川氏に仕えた流れ、土井氏(佐倉藩・唐津藩・古河藩)に仕えた流れとに分かれて、後世に血脈を伝えた。

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●千葉氏の家紋─考察



■参考略系図
    


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