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鮭延氏 ●ダイジェスト
四つ目結
(宇多源氏佐々木氏族)


 中世末期に出羽国最上地方の北部一帯を支配した鮭延氏は、近江源氏佐々木氏の一族である。『鮭延越前守系図』によると、宇多天皇の子敦実親王を祖とするとある。
 二十代綱村のとき出羽国に下り、仙北の横手城主小野寺氏に仕えて関口の番城を預かった。小野寺氏の南下政策によって佐々木氏は最上地方に下り、最上川畔の岩花に居城を構えた。永禄六年(1563)庄内武藤氏の侵攻に敗れた貞綱は、鮭川のほとりの真室内町に退き、以来、居城の地名鮭延を名字とした。
 秀綱は永禄六年、鮭延城内にて佐々木貞綱の二男として生まれた。貞綱は庄内の武藤義増に敗れたとき、秀綱は人質として武藤氏へ遣わされている。天正九年(1581)最上義光は家臣氏家守棟を遣わして鮭延城を攻め、秀綱は敗れて義光に臣従し、本領を安堵された。以後、秀綱は最上義光に仕えて最上郡の北部一帯と仙北地方の一部を領した。

猛将−鮭延秀綱

 慶長五年(1600)五月、徳川家康は上洛の命に従わない上杉景勝を討伐する決意を固め、最上義光を山形に急ぎ帰らせ、上杉氏に備えた。そして七月、小山まで進出した家康は石田三成挙兵の報を受け、急ぎ軍を返して西上した。
 上杉家の執政直江兼続は、その間に最上氏を征討しようとして自ら大軍を率いて村山郡に侵攻した。第一軍約二万余は狐越街道から一気に山形を突こうとし、第二軍約四千余は中山口から上山城に向かった。直江兼続の率いる第一軍は江口五兵衛の守る畑谷城を攻め落とし、ついで山麓の長谷堂城を包囲した。
 長谷堂城は、山形城の重要な防衛拠点であり、これさえ抜けば一挙に山形城を攻略することができる。長谷堂城の守将は、志村伊豆守則俊で決死の覚悟で防戦につとめた。義光は、楯岡光直や清水義親、鮭延秀綱に数千の兵を与えて救援に向かわせた。各地で凄惨な戦いが展開されたが、志村は直江軍を巧みに駆け引きして、上杉軍を悩ました。
 なかでも、鮭延秀綱の活躍はめざましく、のちのちの語り草となったほどであった。『永慶軍記』の「長谷堂合戦 付鮭延働く事」の一節には「さても今日鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなしと、後日に直江が許より褒美をぞしたる」の一文がみえる。当時、直江は天下の名将とうたわれた人物である。
 ところで、上杉軍は酒田城将志田義秀の庄内軍は最上川を遡って村山郡に進出し、尾浦城主下吉忠も六十里街道から進撃して山形城に迫った。この危機に際して、義光は長子義康を伊達政宗のもとに遣わして援兵を請わせると、政宗は留守政景将として一千二百人の兵を山形に派遣した。
 その後、関ヶ原合戦における西軍の敗報を受けた直江兼続は、十月一日陣を徹して兵を引き上げた。義光は撤収する上杉軍を追撃するとともに、庄内に進撃して大浦城を陥れ、さらに狩川・余目・藤島らを押さえて酒田城に迫ったが、積雪のために兵をひいた。翌年六月、再び庄内に出兵して酒田城を陥れ、さらに横手城まで攻め落とした。慶長六年(1601)八月、義光は戦功を賞されて、田川・櫛引・飽海・由利の四郡を加増され、念願の庄内全域を入手し、五十数万石の大大名となった。
 『最上義光分限帳』によると、最上氏領の惣高は七十五万三千九百三十石とあり、領内の二十五城地に家臣を配した。鮭延越前は真室城主となって一万一千五百石を領した。

最上氏の改易

 元和八年(1622)八月、最上家が改易になると、鮭延秀綱は新関因幡とともに老中土井利勝に預けられ、翌元和九年に家臣十四名とともに下総佐倉に赴いた。のちに許されると土井家に仕え、五千石を給された。寛永十年(1633)四月、利勝の転封によって古河に移った。
 秀綱は正保三年(1648)六月、八十四歳にて古河城下に没し、鮭延家は絶えた。
 ところで、『明良洪範』には鮭延越前について以下のように記している。「鮭延越前は最上義光の長臣にして一万五千石を領せしが、最上家滅びて後流落しけるが、家人を愛せし人なる故、流落しても猶未だ廿人の忠士従ひ居て、乞食をしても主を養わんと云。土井大炊守此事を聞て早速呼び迎へ、五千石を与へ客分として家に置きける。鮭延越前は其五千石を家士廿人に与へければ、各二百五十石也。越前其廿人の家士に一日代りに養われて生涯を送りぬ。越前死去の節、右二十人の家士一宇を建立す。下総古河の城下鮭延寺也。」
 旧最上家臣の土井家に召抱えられた者は極めて多く、二十数人が確認されている。戦国乱世に身を置いた鮭延越前であったが、幸福な後半生を送ったといえようか。

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