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鮭延氏
四つ目結
(宇多源氏佐々木氏族)


 中世末期に出羽国最上地方の北部一帯を支配した鮭延氏は、近江源氏佐々木氏の一族である。『鮭延越前守系図』によると、宇多天皇の子敦実親王を祖とするとある。
 鮭延氏は『佐々木大系図』などによると、はじめ江州鯰江地方を領したが、新太郎綱村のとき、一族を率いて出羽国に下り、仙北の領主小野寺氏の客将となり、関口の番城を預かりそこに居住したという。綱村が出羽に下った理由や年代などは明らかではないが、永正九年(1512)に死去していることから十五世紀末のころに下向してきたものと思われる。

佐々木(鮭延)氏の出羽下向

 綱村が下ってきたころの小野寺氏は、輝道の時代にあたり、沼館城を中心に大森・刈和野・神宮寺・角館の諸城を攻略し、由利・最上・置賜郡間室の庄までも従えていたという、まさに小野寺氏がおおいに勢力を伸ばしていた時代であった。そのようななかで、小野寺氏は客将の鮭延氏を最上地方に遣わしたのであろう。
 その後、小野寺氏は家中に内紛が起こり、仙北地方は混乱したが、庄内武藤氏の支援を受けた景道が反対勢力を倒して小野寺氏の実権を掌握した。しかし、その間の鮭延氏の動向は詳らかではない。系図によれば、綱常は天永元年(1521)「仙北山田に一揆起こりて主家に加勢して遂に討死、行年十八歳」とあり、つぎの常孝も主家に従って天文四年(1535)岩崎合戦に臨み、深手を負い陣中に没すとあるから、鮭延氏も小野寺氏の内紛に巻き込まれていたことは疑いない。そして、「天文年中(1532〜54)、行年十七才にして鮭延荘を賜り、真室郷に移り、城郭を築き称鮭延城、永禄六年、大山城主武藤右馬頭と合戦して落城に及び、後和睦して鮭延を領」したという典膳正貞綱が登場する。
 鮭延氏が最上地方に進出してきた時期について、さきの「大系図」は天文年間としているが、この貞綱のこととして『正源寺開闢縁起』には「典膳貞綱の世に至り、大永年中鮭延庄を賜り、真室郷に居館を築きてより武運漸く盛んなり(後略)」とあり、『正源寺覚書』も「大永年中、仙北の城主小野寺輝道公此の地を領し、客将佐々木貞綱をして六千石に封す、貞綱真室郷に移り、城郭を築き、濠柵を構え、最上・庄内の番城として要害無比なり」と記している。
 このように、鮭延氏の登場時期については、諸説あって定かではないが、大永・天文のころ、小野寺氏南進の拠点確立のために真室郷鮭延の地に派遣されたことは確かであろう。以後、佐々木氏は土地の名をとって鮭延氏を称するようになった。こうして、鮭延氏は小野寺氏の南進策の最前線の地に配されたのである。当時、最上地方は、小野寺氏をはじめ、庄内武藤氏、山形最上氏らも進出をはかっており、これら三勢力は最上川流域をめぐって死闘を繰り返していた。
 鮭延氏が最初に城を構えたのは真室内ではなく最上川に近い岩花とする説が多い。『新庄古老覚書』は「岩鼻と言う所に館有り、是に佐々木典膳鮭延越前初に居候処の由。夫より真室に所替」とあり、『最上郡史』も「蔵岡は(中略)鮭川の最上川に合流する所にありて、川の北岸に岩花・出船の支村あり、年歴不詳佐々木氏領所にして岩花に城を築き住し、後に真室に移転せり」としている。そして、真室に移転した時期は、永禄六年(1563)の庄内合戦のとき、庄内勢に城を攻略され、和議ののちに真室城に移ったとものと見られている。

近隣勢力との抗争

 さて鮭延氏の真室移転のきっかけとなった庄内合戦とは、当時、最上地方進出をねらって激闘を繰り返していた庄内武藤氏、横手小野寺氏、山形最上氏らの間における合戦の一つであった。
 庄内武藤氏は大宝寺城を拠点に勢力を拡大したが、戦国時代になると一族砂越氏の反乱に悩まされ、さらに国人領主である土佐林氏・阿保氏・東禅寺氏らの抵抗にも手を焼いていたが、永禄六年(1563)にはそれら反対勢力を平定して庄内三郡を掌中に収めた。その結果、武藤氏の勢力は最上地方にも及ぶようになってきた。武藤氏の最上地方進出は以前から繰り返されていたものであろうが、記録の上で明らかになるのは永禄六年と、同八年の進攻である。とくに永禄六年の進攻は鮭延氏平定が狙いであったようだ。
 このころの鮭延氏は岩花に城を構えていたが、武藤氏の最上地方進攻に敗れ、幼少の秀綱は捕らえられて庄内に連れ去られたという。また、『鮭延城記』は、鮭延方は兵糧が尽き、仙北小野寺氏を頼って彼の地に下ったが、のち武藤氏と和睦し「庭月以北を鮭延領とし、以南合河に至るを大山領と定め、庄内領の内大沢郷を鮭延氏と替地となす」と記している。
 庄内武藤氏がこのようにして最上地方に勢力を伸ばし、大名領国制を確立しつつあったとき、山形最上氏は一族との激しい対立抗争に明け暮れていた。しかし、最上義光が登場し反抗的な一族を討伐し、また反抗的な国人衆らを制圧、強力な大名領国制をうちたてた。そして、天正九年(1581)義光は鮭延氏攻略を決意し、氏家尾張守を将として鮭延城を囲んだ。
 このとき鮭延城主は越前守秀綱(典膳・愛綱)で、若冠十六歳ながら知勇衆に優れた武将で、最上勢の再三の降伏勧告にも耳をかさず長期にわたって抵抗した。しかし、次第に城兵が減り兵糧も尽きたため、夜陰にまぎれて城を脱出し庄内に逃れた、と『奥羽永慶軍記』に記されている。しかし、事実は開城したときに最上義光の軍門に降ったものと思われる。以後、秀綱は最上氏の部将としての活躍を示すようになる。

秀綱の活躍

 天正十四年(1586)、仙北三郡を領有した小野寺義道は、真室庄の鮭延典膳を攻略しようとして大軍を催し役内口に集結した。これに対して最上義光は嫡子の義康・楯岡豊前守を将として一万余の軍勢を送り有屋に布陣させた。これをみた小野寺勢は有屋峠を越えて最上領内に侵攻した。小野寺勢の激しい攻撃に最上軍は裏崩れし、先陣もこらえきれず、ついに総退却となった。以後、戦線は膠着したが、鮭延典膳・小国八郎らは弔合戦を挑んで小野寺勢に打ちかかった。
 これが引き金となって小野寺・最上勢は激戦となり、最上勢は小野寺勢を押し返した。その後、小野寺義道は横手城に帰ったため、最上義康も鮭延典膳に後事を託して山形に引き揚げ、戦いは決着がつかないまま痛み分けという形に終わった。
 翌年、小野寺義道が秋田実季を討つために刈和野に出陣したことを知った鮭延典膳は、大軍をもって金山・有屋に兵を出した。義道は軍を割いて鮭延勢に対応したため、最上義光も三男清水義之・楯岡豊前守を将として一千余騎を金山に送った。そして、八口内において小野寺勢を破ると、破竹の勢いをもって役内草井崎・小野・御返事等を立て続けに攻略した。このとき、鮭延典膳は御返事城の北方にある小笠原能登守が立て篭る合川城に攻め寄せ、一騎も残さず討ち取った。
 合戦後、典膳は小野寺家中の旧縁を頼って、関口城主佐々木喜助を懐柔し、さらに西馬音内肥前守・山田民部少輔・柳田治兵衛尉らに利害をといて最上方へ投降させる活躍を示した。
 天正十五年には、小野寺氏と六郷氏の和談を調停しようとして山田城に出張している。ところが、松岡越前守と山田勢との戦いに巻き込まれ、進退極まるという事態に陥り、命からがら逃げ帰るということもあった。その後も小野寺氏と六郷氏との和談成立に尽力しながら、小野寺氏攻撃の機会をうかがっていたが、上杉景勝勢が庄内に進攻し、最上氏が大敗を喫したため、小野寺氏攻略はあきらめて居城に引き揚げた。このように、鮭延典膳は最上軍の北方を守備する重要な任務をにない、小野寺氏との和戦双方に活躍を示していた。

長谷堂城の合戦

 慶長五年(1600)五月、徳川家康は上洛の命に従わない上杉景勝を討伐する決意を固め、最上義光を山形に急ぎ帰らせ、上杉氏に備えた。そして七月、小山まで進出した家康は石田三成挙兵の報を受け、急ぎ軍を返して西上した。このとき、上杉家の執政直江兼続は最上氏を征討しようと自ら大軍を率いて村山郡に進出した。直江軍は畑谷城を攻め落とし、次いで長谷堂城を包囲した。
 長谷堂城は、山形城の重要な防衛拠点であり、これさえ抜けば一挙に山形城を攻略することができる。長谷堂城の守将は、志村伊豆守則俊で決死の覚悟で防戦につとめた。義光は、楯岡光直や清水義親、鮭延秀綱に数千の兵を与えて救援に向かわせた。各地で凄惨な戦いが展開されたが、志村は直江軍を巧みに駆け引きして、上杉軍を悩ました。
 なかでも、鮭延秀綱の活躍はめざましく、のちのちの語り草となったほどであった。『永慶軍記』の「長谷堂合戦 付鮭延働く事」の一節には「さても今日鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなしと、後日に直江が許より褒美をぞしたる」の一文がみえる。当時、直江は天下の名将とうたわれた人物である。
 『永慶軍記』は、秀綱の活躍ぶりを次のように記している。

鮭延四五十騎の鼻をならべ、切先を揃えて駆ければ、会津勢取囲んとや思ひけん。陣を奮しが、鮭登少も猶予せず縦横に破り、巴に追廻し、前後を払て突伏せ、切倒せば、流石に聞こえし会津勢も一陣、二陣混乱して、既に直江が旗本迄近付く。中にも鮭延左衛門尉いまだ十六歳の若者なれども、力尋常に勝れしが、大音揚げて「敵の大将を組留よ。直江はあれに見ゆるぞ。兼続が旗は夫ぞ」。と喚き叫んで駆けちらす。其勢ひ悪源太義平が勇力にも勝るべくぞ見えにけり。敵三人を突落し、手疵負せしは数を知らず。我身も六ケ所疵を蒙り、同新田十助五人を突伏せたり。越前守は三尺五寸の太刀を片手にとりて、胄の鉢を割付け、篭手、臑当、草摺ともいはず当るを幸に切て落す。


 『長谷堂合戦図屏風(下図)』は、『永慶軍記』の著者戸部一敢斎が描いたものであるが、上記の合戦の様子が克明に描かれている。

 ところで、上杉軍は酒田城将志田義秀の庄内軍は最上川を遡って村山郡に進出し、尾浦城主下吉忠も六十里街道から進撃して山形城に迫った。この危機に際して、義光は長子義康を伊達政宗のもとに遣わして援兵を請わせると、政宗は留守政景将として一千二百人の兵を山形に派遣した。
 その後、関ヶ原合戦における西軍の敗報を受けた直江兼続は、十月一日陣を徹して兵を引き上げた。義光は撤収する上杉軍を追撃するとともに、庄内に進撃して大浦城を陥れ、さらに狩川・余目・藤島らを押さえて酒田城に迫ったが、積雪のために兵をひいた。翌年六月、再び庄内に出兵して酒田城を陥れ、さらに横手城まで攻め落とした。慶長六年(1601)八月、義光は戦功を賞されて、田川・櫛引・飽海・由利の四郡を加増され、念願の庄内全域を入手し、五十数万石の大大名となった。
 『最上義光分限帳』によると、最上氏領の惣高は七十五万三千九百三十石とあり、領内の二十五城地に家臣を配した。鮭延越前は真室城主となって一万千五百石を領した。

最上氏の改易

 元和八年(1622)八月、最上家が改易になると、鮭延秀綱は新関因幡とともに老中土井利勝に預けられ、翌元和九年に家臣十四名とともに下総佐倉に赴いた。のちに許されると土井家に仕え、五千石を給された。寛永十年(1633)四月、利勝の転封によって古河に移った。そして、正保三年(1648)六月、八十四歳にて古河城下に没し、鮭延家は絶えた。
 ところで、『明良洪範』には鮭延越前について以下のように記している。「鮭延越前は最上義光の長臣にして一万五千石を領せしが、最上家滅びて後流落しけるが、家人を愛せし人なる故、流落しても猶未だ廿人の忠士従ひ居て、乞食をしても主を養わんと云。土井大炊守此事を聞て早速呼び迎へ、五千石を与へ客分として家に置きける。鮭延越前は其五千石を家士廿人に与へければ、各二百五十石也。越前其廿人の家士に一日代りに養われて生涯を送りぬ。越前死去の節、右二十人の家士一宇を建立す。下総古河の城下鮭延寺也。」
 これを裏付けるかのように、旧最上氏家臣で土井家に召し抱えられた者は二十数人が確認されている。戦国乱世に身を置いた鮭延越前であったが、幸福な後半生を送ったといえようか。

・ダイジェスト

参考資料:真室川町史/湯沢市史 ほか】


■参考略系図
・詳細系図不詳。ご存じの方、ぜひ情報をお寄せください。
    


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