ヘッダイメージ



下総大須賀氏
真向き月星
(桓武平氏千葉氏流)


 大須賀氏は、千葉介常胤の四男四郎胤信を祖とししている。『千葉大系図』や『大須賀家系図』などによれば、胤信は左衛門尉を称して、香取郡大須賀保を所領とし、胤信の嫡子通信の代に保内の松子城に住したとみえている。そして、その庶子からは、田部多・荒見・奈古谷・成毛らが分かれ出た。

大須賀氏の登場

 千葉常胤は源頼朝の旗揚げのときから頼朝に従って、幕府草業の功臣として頼朝から厚い信頼を得た。千葉氏は嫡男の胤正が継承し、二男師常は相馬御厨を本拠として相馬氏を称し、三男の胤盛は武石郷を領して武石氏を、五男の胤道は葛飾郡国分郷を領して国分氏を、六男胤頼は香取郡東庄を領して東氏を、そして、四男四郎胤信が大須賀保に入部して大須賀氏を称したのであった。この六家を併せて、のちに「千葉六党」と称される武士団となった。
 胤信は頼朝の側近くに仕えて、厚い信頼を受けた。建久元年(1190)九月、頼朝の上洛の奉行人が決められたとき、胤信は八田知家とともに厩の事をつかさどる奉行となった。このときの奉行人の顔ぶれを見ると、和田義盛・梶原景時・三浦義連・葛西清重・大江広元などの錚々たるメンバーで、胤信はこれらの有力御家人と肩を並べて、重要な役割を勤めたのであった。胤信が頼朝からあつい信頼を受けていたのみならず、その行政能力も高かったことを示したものといえよう。
 その後、鎌倉幕府内では、執権北条氏の権勢が著しく伸張し、他の鎌倉御家人との間で勢力争いが起った。北条氏は対立する御家人を次々と没落させ、権勢を確立していった。大須賀氏は北条氏と近い関係を築き上げ、鎌倉末期まで下総に勢力を維持した。

大須賀氏の興亡

 やがて、元弘の乱において鎌倉幕府が滅亡すると、建武の新政が発足し、建武政権は北畠顕家を陸奥守に任命して奥州に下向させ、顕家は義良親王を奉じ陸奥国府の置かれた多賀城において、奥州の支配を開始したのである。
 このような情勢のなか、大須賀氏の奥州における所領は、南朝方の中心的武将であった結城白河氏に与えられてしまった。大須賀氏の所領が没収されたのは、大須賀氏が鎌倉幕府や執権北条氏に近い存在であったことが原因となったようだ。その結果、大須賀氏は南朝方に対抗する意味もあって、北朝方として活躍した。とくに奥州大須賀氏は建武四年(1337)、石川松河四郎太郎を大将とする北朝軍に属して、南朝方の小山権守の菊田庄滝尻城、湯本館を攻撃した。その後、奥州大須賀氏は岩城氏に属して戦国時代に至ったようだ。
 一方、下総の大須賀憲宗は千葉介貞胤とともに足利尊氏と対立したが、間もなく足利方に降伏して家名を守った。憲宗の子宗正は、貞治四年(1365)に千葉介満胤が家督を相続したときまだ幼少であったため鎌倉公方足利氏満の命を受け、その後見人となったことが知られる。
 南北朝の内乱は、足利義満によって南北合一が成り一応の終結をみせ、関東の政治体制は関東府を頂点として成立したが、十五世紀になると、関東府を中心として戦乱が起こるようになった。足利持氏が公方になると、「禅秀の乱」が起り、大須賀憲康は千葉本宗家の満胤・兼胤父子とともに禅秀方に属していたが、のちに持氏方に転じて所領を安堵されたようだ。その後、持氏と幕府の対立から「永享の乱」が起り、持氏は幕府軍に敗れて滅亡した。この永享の乱に際して、大須賀一族がどのような行動を取ったかは分からない。
 その後、持氏唯一の遺児である永寿王丸(成氏)が許されて関東公方となり、関東府が再興された。しかし、新公方となった成氏は上杉氏と対立し、さらには幕府とも対立するようになり「享徳の乱」を引き起こした。この享徳の乱によって関東は戦乱の坩堝となり、時代は戦国へと移行していくことになるのである。

二つの大須賀氏

 ところで、大須賀氏は松子城を本拠とし、助崎城を支城として中世を生き抜き、松子大須賀氏を本宗家とした一つの勢力として存在していたと考えられていた。ところが、戦国時代の天正十一年(1582)から翌十一年にかけて作成されたと考えられる「小田原一手役書立写」に「大須賀殿 助崎殿」とみえているのである。このことから大須賀氏は松子と助崎がそれぞれ別個の領主として存在していたと思われるのである。
 大須賀氏の系図として「大須賀家蔵大須賀系図」と「宝応寺蔵大須賀氏系図」が知られる。そして、「大須賀家蔵大須賀系図」から助崎大須賀氏の系譜が知られるのである。二つの系図から、大須賀氏が二流に分かれたのは、憲宗の子の代と考えられる。
 松子城を本拠とした大須賀氏は次第に有力国人領主として千葉宗家から独立する傾向を示すようになり、助崎大須賀氏は千葉宗家を支えて時代の変転に対応していた。
 戦国時代になると、小田原城を本拠とした後北条氏の勢力が関東一円を席巻するようになり、千葉宗家も後北条氏の麾下に属するようになり、大須賀氏も後北条氏に属するようになった。しかし、室町時代から戦国時代に至る大須賀氏の動向は必ずしも明確ではない。
 天正十八年、豊臣秀吉は小田原北条氏に対して討伐軍を発し、小田原に攻め寄せた。秀吉軍は、関東各地に点在する後北条方の城を各個撃破し、小田原城を残すばかりとした。ついに七月、後北条氏は城を開いて豊臣秀吉に屈服した。ここに、戦国大名として関八州の君臨した後北条氏は壊滅し、大須賀氏も後北条氏と運命をともにした。

参考資料:大栄町史 ほか】

●千葉氏の家紋─考察



■参考略系図
    


バック 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧