![]() ![]() . ![]() ●永正十三年(1516)〜天正十六年(1588) ●織田信長の部将。尾張比良城主佐々盛政の子。天正三年越前府中を与えられ、前田利家らと柴田勝家の与力。同九年越中一国を得て富山城に拠る。のち豊臣秀吉に属し、肥後城主となる。 ![]() ●天文五年(1536)〜天正十二年(1584) ●織田信長の家臣。のち豊臣秀吉に与力。池田恒利の子で、母は信長の乳母をつとめた。信長の時に伊丹城主。秀吉により大垣城主を命じられ、長男元助は岐阜城主となった。小牧長久手の戦役で戦死。 ![]() ●生年不詳?〜天正十一年(1583) ●はじめ、織田信行に属し、信長と戦ったが敗北し信長の家臣となる。家中随一の猛将として知られ、浅井・朝倉攻めで軍功あり、北ノ庄城主となる。信長の妹お市を妻とした。のち、賤ケ岳の合戦で秀吉に敗れ自刃した。 ![]() ●天文十三年(1544)〜天正七年(1579) ●半兵衛の通称で有名。播磨の黒田官兵衛と信長の部将当時の羽柴秀吉を支え、名軍師と称された。そもそもは、 美濃斎藤家の家臣で不破郡岩手城主竹中重元の子として生まれた。はじめ、斎藤義龍に仕え、ついで龍興に仕えた。 織田勢との戦いに活躍したが、凡庸の龍興に遠ざけられたため、奇計をもって稲葉山城を奪取するという離れ業を演じた。 その後、斎藤家を去って隠棲したが、木下藤吉郎の乞いをいれてその家臣となった。 浅井攻め、中国征伐に活躍したが、播磨三木城攻めの最中に病没した。
![]() ![]() ●九鬼氏五代志摩田城城主定隆の二男として生まれる。嘉隆は地元の十三地頭(海賊衆)を平定し、滝川一益の仲介で 織田信長に属するようになり、長島一揆や熊野一揆、伊勢北畠家攻略に活躍した。本願寺攻めでは毛利水軍を破って 石山本願寺を孤立させ、功により鳥羽城主三万五千石を領した。信長没後は羽柴秀吉に仕えて領地を安堵され、 水軍の将として戦功をあげた。「関ヶ原の戦い」では子の守隆が東軍に、自身は西軍につき、戦後自殺した。 ![]() ●大永四年(1524)〜慶長三年(1598) ●近江源氏・佐々木六角十三代観音寺城主、諱は義賢。流亡の足利将軍義晴・義輝を助けて、たびたび三好・松永党と戦う。 永禄十一年足利義昭を奉じて上洛する信長に反抗、わずか一日の戦いで落城、逃亡した。 ![]() ●天文十四年(1545)〜天正三年(1575) ●近江小谷城主久政の子。十六歳で浅井氏を継ぐ。それまで江南六角氏の傘下に置かれていた状態を脱して自立し、 それまで六角義賢の"賢"の字をつけて賢政といっていたのを長政と改称している。信長の妹お市の方と結婚して、 友好を保ったが、同盟の朝倉氏との義理を重んじて信長に反抗。天正元年八月、小谷洛城に際し二十九歳で自刃した。 ![]() ●天文二年(1533)〜天正元年(1573) ●越前の戦国大名・朝倉孝景の子で、天文十七年(1548)に家督を継ぎ朝倉氏最後の当主となった。当時の越前は 加賀の一向一揆があったものの、一乗谷を中心によく治まり京都から多くの公家が避難し、越前谷文化を花開かせた。 将軍足利義輝が殺害されると、弟の義昭を一乗谷に迎え歓待した。しかし上洛の意思がなく、義昭は織田信長の もとに去る。その後、近江の浅井長政と結んで四年にわたる信長と抗争を続けたが、敗れて滅亡した。 ![]() ●弘治二年(1556)〜文禄四年(1595) ●近江日野城主蒲生賢秀の子。十三歳のとき織田信長のもとに人質として送られたが、信長に才能を認められその 女婿となった。天正十年(1582)、「本能寺の変」で信長が亡くなると、秀吉と信長の弔い合戦で戦功をあげた。 その後、秀吉に仕え、伊勢松坂十二万石、会津若松九十二万石に転封される。「文禄の役」のため名護屋在陣中に発病、 四十歳の若さで生涯を閉じた。利休七哲の一人であり、またキリシタン大名でもあった。 ![]() ![]() ●室町幕府の第十三代征夷大将軍。十二代将軍足利義晴の嫡男に生まれたが、当時の将軍権力は有名無実化していて、 父義晴は管領細川晴元と対立、敗れて近江に逃れることが再三という状況であった。義輝も父とともに京からの脱出、 復帰を繰り返した。将軍就任後、細川晴元と和睦して京に復帰すると将軍権力の復活に尽力した。しかし、 志なかばで松永久秀・三好三人衆らの謀反によって殺害された。義輝は上泉信綱に教えを受けた剣豪将軍としても 知られている。 ![]() ●天文三年(1534)〜慶長十五年(1610) ●室町幕府奉公衆の三淵晴員の次男という。のちに管領、細川元常の養子となった。実は将軍足利義晴の落胤とする説も ある。幽斎の名でも知られている。足利義輝に仕えたが、その横死後、義輝の弟義昭を奉じて将軍にした。しかし、 義昭は織田信長に敵対し藤孝の諌言を容れず、結局藤孝は義昭と袂を分かって信長の家臣となった。以後、信長、 豊臣秀吉、徳川家康に仕え、乱世を生き延びた。 古今伝授を継承した歌人としても知られ、家集「衆妙集」、著書「百人一首抄」などを遺した。 ![]() ●天文十八年(1549)〜天正十二年(1584) ●天文十八年(1549)、筒井城主筒井順昭のとして生まれる。翌年、父が死去したことで、わずか二歳で家督を継ぐ。 松永久秀と抗争の結果、筒井を追われ福住山中でゲリラ戦を展開した。元亀三年、織田信長の援けで奈良・多聞城攻略に かかり、天正五年に至って久秀を滅ぼす。明智光秀の援助で、織田信長から大和一国を与えられ、同八年に郡山城に 入った。本能寺の変後の山崎合戦では光秀に応じず、羽柴秀吉に従い領国安堵された。 |
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