![]() ![]() . ![]() ●天文十九年(1550)〜慶長十二年(1607) ●出自は不明だが下久慈城主・久慈備前の子の可能性が強い。大浦城城主・大浦為則の養子となり、南部氏に属していたが、南部氏の内訌を好機として自立を図る。ついには、南部氏の勢力を津軽郡より追い落として、津軽氏を名乗った。天正十八年(1590)、豊臣秀吉から所領の安堵を受け、津軽氏の基盤を確立した。関ヶ原の合戦では家康に荷担し、近世大名津軽氏を磐石とした。 慶長十二年、京において五十八歳の生涯を閉じた。 ![]() ●天文八年(1539)〜天正十五年(1587) ●檜山系安東氏に生まれ、長く分裂していた檜山系と湊系の安東氏を統一し、安東氏の戦国大名化を成し遂げた。 比内の有力国人浅利氏を降し、南部氏・大宝寺氏らと干戈を交えて着実に秋田郡・檜山郡・由利郡にまで版図を拡大した。 その一方で、織田信長や豊臣秀吉など中央の権力者にも誼を通じ、 安東氏の最盛期を築き上げたと伝えられている。晩年に名字を安東から秋田へと改め、子孫は近世大名として続いた。 ![]() ●天文十五年(1546)〜慶長四年(1599) ●近世南部藩の祖。南部氏二十三代安信の弟石川高信の長男に生まれる。三戸城主南部晴政の養子となり、二十五代晴継早世の後を継ぐ。家督相続に際して九戸政実らと対立し、その後の家中不穏を招いた。また、津軽為信の台頭により、津軽地方を版図から失う。小田原参陣により南部七郡の朱印状を受けたが、九戸政実の乱が勃発。乱を豊臣政権の力を借りて鎮圧し、三戸から盛岡に移った。戦後、失った津軽の替地として和賀・稗貫・志和の三郡を与えられる。 ![]() ![]() ●奥州の戦国大名伊達輝宗と最上義光の妹義姫との間に生まれた。幼少のころ疱瘡に罹り右目を失ったため、引込み思案な子供であったという。父が招いた虎哉禅師の厳しい薫陶、側近の片倉景綱などの尽力により、武将としての素養を身につけていった。天正九年(1581)、十五歳のとき相馬氏との戦いに初陣を飾った。そして天正十二年に、父輝宗の譲りを受けて家督を継承した。以後、奥州戦国時代の風雲児となり、 近隣諸勢力を平らげ、押しも押されもせぬ奥州一の大大名となった。
![]() ●弘治三年(1557)〜元和元年(1615) ●米沢の成島八幡神社の神職片倉景長の次男に生まれ、小十郎と通称された。伊達輝宗に小姓として仕え、のちに政宗の 近侍となった。以後、政宗の側近として文武に活躍、家中では「武」の伊達成実、「智」の片倉景綱と並び称された。 小田原の陣が起こると、徹底抗戦を唱える成実らを抑えて政宗に参陣をなさしめた。景綱の才能を高く評価した秀吉は、 奥州仕置のとき直臣に迎え三春五万石に取り立てようとした。 しかし、景綱はこれをきっぱりと断り、政宗への忠節を貫いた。 ![]() ●天文十五年(1546)〜慶長十九年(1614) ●出羽の戦国大名。山形城主最上義守の子。最上・村上郡を平定。小田原参陣により、豊臣秀吉から本領の安堵を受ける。関ヶ原合戦後。庄内・由利郡を加増され、五十七万石を領した。 ![]() ●大永元年(1521)〜天正八年(1580) ●葦名氏中興の祖というべき十五代盛舜の嫡男に生まれた。盛氏は家督を継承すると、一門の猪苗代氏、越後の長尾為景と結ぶ山内氏、さらに長沼氏らと抗争、会津地方の制服を進めた。伊達氏に家督をめぐる「天文の乱」が起こると、一方の晴宗に味方して活躍した。以後、二本松の畠山氏、須川の二階堂氏、三春の田村氏など近隣の諸勢力を斬り従え、葦名氏の全盛時代を築いた。嫡男盛興が早世したため、二階堂盛隆に跡をつがせ政務をみたが、天正八年、黒川城で病没した。 ![]() ●元亀元年(1570)〜寛永十年(1633) ●常陸の戦国大名佐竹義重の長男。天正十七年(1589)に父から家督を譲られたが、その頃の佐竹家は北方の伊達政宗、南方の北条氏政の挟撃に合い苦しい状況にあった。翌年、豊臣秀吉の小田原征伐に参加してその麾下となり、危機を脱するとともに本領安堵を受けた。その後、常陸を統一して五十四万石の豊臣大名となった。関ヶ原合戦では態度を曖昧にし、戦後に出羽秋田二十万石へ転封される。 ![]() ●康正二年(1456)〜永正十六年(1519) ●伊豆・相模の戦国大名。備中高越山城主伊勢盛定の子というが不明。幕府の役人から今川氏親に仕え、幕府の指示で伊豆に乱入した。堀越公方を滅ぼし、相模の大森氏、ついで三浦氏を討って戦国大名に。 ![]() ![]() ●戦国時代の幕を開いた北条早雲の孫にあたる。父氏綱の死後、巻き返しを図る上杉氏、古河公方の連合軍と河越で戦い、寡勢をもって大勝利を得た戦いは「河越合戦」として有名。氏康は武将としての力量にも恵まれたが、内政にも非凡な能力をみせ、北条氏の勢力を安定期に導いた。また、越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄の攻撃を受けたが、よくその鋭峰を交している。決して派手な印象はないが、ひとかどの戦国武将であったことは紛れもない。 ![]() ●永正十一年(1514)〜天正十一年(1583) ●甲斐源氏の流れをひき、信濃の守護大名。林城主で中信濃に勢力をはった。天文十七年、武田信玄に敗れ、のち上杉謙信を頼った。謙信の死後、会津の葦名盛氏に寄食、旧領回復を夢みながら三十余年流浪した。 ![]() ●生年不詳?〜天正元年(1573) ●越後・根知城主。建武二年信濃惣大将として入国した村上氏の子孫。根拠地は信濃国埴科郡坂木。北信濃第一の戦国大名。武田信玄に敗れ、上杉謙信を頼り、旧領回復を狙うが、のち謙信の客将となる。 |
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