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大原氏近江伴一族
●木瓜に二つ引両
●大伴氏裔伴善男後裔
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近江国は琵琶湖を中心として、湖西・湖北・湖東・湖南の四地域に分かれ、湖南の草津宿から伊吹山・関ヶ原方面へ中山道、鈴鹿山脈に向かって東海道が通っている。東海道は草津宿より石部・水口・土山を経て、伊勢国坂下宿へと続く。そして、水口・土山のあたりは甲賀郡に属し、戦国期、甲賀五十三家と称される土豪が割拠していた。また、甲賀は伊賀と並ぶ忍者の里としても著名である。
甲賀五十三家には、山中・三雲・佐治・望月・大原・美濃部・和田などの諸氏があり、出自は平氏、橘氏、伴氏など一様ではないが、中世を通じて近江の歴史に関わった。南北朝の動乱期を生き抜いた甲賀衆は、室町時代になると近江南半国守護佐々木六角氏の被官となり、その戦力の一翼を担った。甲賀衆の名を高からしめたのは、将軍足利義尚による六角高頼征伐における戦いであった。長享元年(1487)、甲賀衆は足利義尚に攻められ甲賀に奔った六角高頼を支援し、義尚の本陣である鈎の陣に夜襲をかけ幕府軍を散々に蹴散らした。長享の乱と呼ばれる合戦で、戦いに活躍した五十三家を甲賀五十三家と称するようになり、とくに高頼から感状を受けた家を甲賀二十一家と呼ぶようになった。
戦国期の甲賀は「郡中惣」と呼ばれる独特の合議制によって事案を決定していたことが知られ、二十一家は惣を構成する「地域連合惣」の代表でもあった。「郡中惣」による合議制もあって、甲賀を統べる戦国大名はついにあらわれず、甲賀衆は六角氏をよく支えつづけた。しかし、織田信長の上洛にともなう佐々木六角氏の没落、信長後の豊臣秀吉による天下統一事業の推進といった時代の変化に甲賀五十三家は翻弄された。そして、佐々木六角氏に従って没落するもの、豊臣氏に抵抗して滅亡するもの、武士を捨てて帰農するものなど多くの甲賀武士が歴史の波に呑まれていった。
とはいえ、徳川幕府の旗本に召出されて近世に生き残った家も多い。たとえば、本能寺の変に際して、上洛の途にあった徳川家康の三河帰還を援けたことで旗本に取り立てられた和田氏・多羅尾氏、関ヶ原の合戦に際して鳥居氏に属して伏見城で戦死した大原篠山氏、佐々木六角氏に対する変わらぬ忠節を賞でられた三雲氏らが徳川旗本として近世に続いた。
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