もっともっと画像

三河大伴氏のこと



●大伴直と倭宿祢

 三河大伴氏は、応天門の変(八六六年)で失脚する伴善男の子・伴員助(トモノカズスケ)に出自を求める(大伴氏は、淳和天皇(七八六〜八四〇)の諱・大伴皇子を避け、淳和天皇が即位した弘仁一四(八二三)年「伴」に改姓する。)。しかし、三河富永氏系図は、伴善男(八一一〜八六八)が、応天門の変の失脚後、伊豆に配流される途中、三河に逗留した時に大伴常盛の娘との間に生れたとするが、配流の途中に三河に逗留した記録もなければ、まして、わずかの期間に、甲賀平松氏祖・善平(員助の弟)が産まれたとは考えがたい。  上述のように、富永氏が、その出自を求める伴員助の母を幡豆・八名両郡司・大伴常盛の娘とする。員助は、母方も大伴(伴)氏なのである。
 三河富永氏系図によれば、員助の子・清助、孫の正助は、ともに幡豆郡司、曽孫の依助が八名郡司であったとする。員助の裔が、幡豆・八名郡司となっていることを考えれば、員助は、幡豆、八名両郡司・大伴常盛の跡を嗣いだと考えられる。
 大伴常盛の出自について、三河富永氏系図は、何も記載しないが、日本書紀は、考徳天皇の二(六四六)年の条に三河大伴直の名を記載する。また、宝亀四(七七三)年に大伴宿祢良雄が、三河国司に任命されている。三河大伴氏が伴善男に出自を求めたかについては、次章で考察するが、この三河国司・大伴宿祢良雄の記憶が、後に伴善男に変容したと考えられる。さらに、大伴宿祢良雄が、三河国司に任命される以前の天平宝字元(七五七)年には、大伴宿祢御依が三河国司に任命されている。
 常盛は、三河大伴直あるいは大伴宿祢と関係があるのではないか。旧事紀の巻の七・天皇本紀の第一二代景行天皇の条は、景行天皇の子・倭宿祢を三川大伴部直の祖と記載する。なお、この倭宿祢についても、天平勝宝五(七五三)年に大倭宿祢小東人(ヤマトノスクネコアズマンド)が、三河国司に任命されている。  記紀は、景行の子は、八〇人あまりいたとし、そのなかの二〇人あまりの名を記載する。倭宿祢の名は、記紀には、記載されない。記紀は、八〇人あまりの子のうち、第一三代の成務のほか数人を残し、そのほかの皇子は、国造、群造に分け地方に封じたとする。そして、日本書紀景行条は、これら地方に封じた皇子が、諸国で「別」を称する氏族の祖であると記載する。
 先程述べたように、大伴常盛は、幡豆・八名の両郡司であったとされる。三河国内神名帳に八名郡に大伴神社が鎮座する旨が記載される。
 大伴神社は、明治四一(一九〇八)年、賀茂神社(豊橋市賀茂町、旧八名郡賀茂)に合祀されたが、それ以前は、独立した社であった。明和四(一七六七)年、賀茂真淵(一六九七〜一七六九)が、大伴神社神主・加藤氏の依頼に応じ作った祝詞に、「仁徳天皇の時代に我が遠祖・八名国造に命じて神押日命を斎き鎮め奉る」と記載されている。
 神押日命は、古事記に記載される天忍日命と思われる。古事記は、天忍日(アメノオシヒ)を大伴連等の祖と記載する。連とは、群主の意だといわれ、首長に与えられた姓である。また、八名国造とは、成務天皇が、国・郡に、造を定めたとすることから、八名郡造、つまり、八名郡司を意味するのであろう。なお、大伴神社が、合祀された賀茂神社は、白雉元(六五〇)年五月に八名国造三河大伴直芦が創建したとする説がある。  三河国内神名帳が、記載する八名郡に鎮座する大伴神社は、八名郡司に関係する神社なのである。大伴神社神主・加藤氏は、本姓を大伴とする。大伴神社は、富永氏系図が幡豆・八名両郡司とする大伴常盛とも関係の深い神社である。
 賀茂真淵は、本姓を大伴とする加藤氏が、神主を勤める八名郡司に関係する大伴神社の祝詞を作成するにあたり、旧事紀に記載される三河大伴直祖・倭宿祢を祭神とせず、古事記に記載される大伴連等祖・天忍日(神押日)を祭神とした。
 旧事紀は、一〇世紀初頭に書かれたものである。しかし、その序文に聖徳太子の命により蘇我馬子により編集されたと書かれていることから、江戸時代に入り偽書とされるに至った。そうした経緯から賀茂真淵は、大伴神社の祝詞を作成するにあたり古事記を参考にしたと思われる。また、賀茂真淵が、大伴神社神主に依頼されて作った祝詞には、仁徳天皇の時代云々と記紀の記載からは、想到できない文言がある。大伴神社は、この根拠となる何らかの資料を有していたと思われる。その資料として考えられるのは、大伴神社の元来の祝詞である。
 大伴神社の元来の祝詞は、偽書とされた旧事紀に記載される三河大伴直祖・倭宿祢に関するものであったが、旧事紀が偽書とされたことから、元来の祝詞を改める必要が生じ、賀茂真淵に祝詞の作成を依頼したと考えられるのである。
 最近の研究により旧事紀は、記紀の編纂の基とされた資料と同等の資料に編纂されたものとされ、その資料的価値も認められるに至った。旧事紀が偽書とされたことから、祝詞を改めたのであれば、大伴神社の祭神は、三河大伴直の祖・倭宿祢であったと考えられる。  旧事紀の巻の五・天孫本紀は、天忍日を連想させる天忍人(アメノオシヒト)を火明命の三世孫とし、忍人の弟を忍男、妹を忍日女とする。
 火明命を祖とする海部氏が、代々神職を務める丹後一宮・籠神社が所蔵する国宝の祝部氏系図は、火明命の三世孫を倭宿祢とする。また、籠神社が、所蔵する海部氏本紀は、天孫本紀と同様、天忍人を火明命の三世孫とするが、別伝として天忍人を倭宿祢とする。
 海部氏本紀の別伝で倭宿祢とされる天忍人を天孫本紀は、第五代孝昭天皇の后・与曽足姫の伯父とする。さらに、天孫本紀は、天忍人の曽孫・建宇那比の娘・大海部姫を崇神の妃とする。天忍人(倭宿祢)は、崇神以前の人物となり、長髄彦との繋がりも出てくる。
 天皇本紀が、倭宿祢を景行の子としたのは、記紀の景行の子を国造・郡造に分け地方に封じたとする記載及び成務の国・郡の造を制定したとする記載と整合性を保つためだと思われる。三河大伴直祖・倭宿祢は、崇神(神武)東征以前に遡る人物であり、成務の時代に、その裔が、八名国造の地位を追認されたと考えられる。そして、富永氏系図が幡豆・八名両郡司とする大伴常盛は、三河大伴直祖・倭宿祢の裔と考えられるのである。

●三河大伴氏と石座神社

 種々の文献から三河富永氏祖・富永資隆の四代前の伴助高については、ある程度の実在が確認される。助高は、三河富永氏が出自を求める伴員助から五代後である。三河富永氏が出自を求める伴員助は、三河大伴直の祖・倭宿祢の裔・大伴常盛の娘の子である。そして、三河大伴直の祖・倭宿祢は、崇神(神武)東征以前に遡る人物である。
 伴助高は、寛弘六(一〇〇九)年、三河半国総追捕使兼八名・設楽の領主であったとされる。大伴常盛は、幡豆・八名両郡司であったとされる。伴助高が、領主であった八名郡には、三河大伴直の祖・倭宿祢を祭神とする大伴神社が鎮座している。
 系図を参照しながら三河富永氏が出自を求める伴員助からある程度の実在が確認される伴助高について考察する。員助の子・清助は、幡豆郡司、清助で員助の孫にあたる正助も幡豆郡司である。正助の子・依助が八名郡司、依助の子・光兼が海道総追捕使、光兼の子・助重が幡豆郡司であったとされる。そして、助重の子が助高である。員助の子、孫、そして、助重の父が幡豆郡司であり、員助の曽孫で助高の曽祖父にあたる依助が八名郡司である。員助から資高までは、八名より幡豆と関係が深い。
 戦国時代、幡豆郡に室城があった。城主は、富永氏、初代城主は、室町幕府三代将軍・足利義満に仕えた富永資良とされる。また、資良の子・行康は、室町幕府八代将軍・足利義政に仕えたとされ、孫の資正は、応仁二(一四六八)年、吉良義信に仕えたとされる。幡豆室城主・富永氏は、室町時代初期まで遡ることができる。幡豆室城主・富永氏と幡豆郡司の関係を考察する。
 寛弘六(一〇〇九)年、伴助高が、八名・設楽の領主になった後は、助高の子の助行が、設楽伴六助、同じく助高の子で助行の弟・助親が、八名太夫、さらに、その弟の資兼が、設楽太夫を号す。設楽太夫資兼の子・親兼は、富永六朗太夫、富永六朗太夫親兼の子・俊実は、設楽太郎を名乗った。設楽太郎を名乗った俊実の子・資時が、三河設楽氏祖、三河設楽氏祖・資時の弟・資隆が、三河富永氏祖となる。助高以降、幡豆との関係は、室町時代初期の幡豆室城主・富永氏までない。
 初代野田館垣内城主・富永直郷は、室町幕府初代将軍・足利尊氏に従った。富永資良が、幡豆郡室城主となるのは、富永直郷が、野田館垣内城主となった後である。
 三河富永氏系図によれば、直郷の従兄弟・盛資の子に資良がいる。また、直郷の孫にも資良を名乗る者がいる。室城主となる富永資良は、野田館垣内城主・直郷の従兄弟の子・資良か直郷の孫の資良のいずれかと思われる。幡豆室城主が伴でなく富永を名乗っていることからもそれを裏付ける。
 幡豆室城主・富永氏は、八名・設楽の領主となった助高の裔・三河富永氏から分れたのである。助高以前に幡豆郡司が冠せられるのは、幡豆室城主・富永氏の権威付けのためと考えられる。そして、野田館垣内城主・富永氏は、幡豆室城主・富永氏より先に没落したため、幡豆との関係が強調されたと思われる。
 三河半国総追捕使兼八名・設楽の領主となった助高は、宇利富永に住んだという。中世には、豊川左岸の八名郡の大部分を宇利荘と呼んでいることから宇利は、八名郡をを指すと思われる。しかし、富永が、八名郡の何処を指すかは不明である。また、八名郡内に富永の地名があった痕跡はない。
 八名・設楽の領主・伴助高の子・助行が、設楽伴六助、同じく助高の子・助親が、八名太夫、資兼が、設楽太夫を号す。設楽太夫を号した資兼の曽孫・資時と資隆が、それぞれ三河設楽氏祖、三河富永氏祖となる。八名・設楽の領主・伴助高の子・八名太夫を号した助親が、大伴神社神主家に連なると思われる。  設楽太夫を号した資兼の子・親兼は、富永六朗太夫を名乗る。親兼は、八名・設楽の領主・伴助高の孫である。親兼の代になってはじめて富永の名が現れるのである。富永六朗太夫を名乗った親兼の子・俊実は、設楽太郎を名乗っている。親兼の父が、設楽太夫を号し、親兼の子は、設楽太郎を名乗っている。富永六朗太夫を名乗った親兼も設楽を領地としたと思われる。そして、富永六朗太夫親兼の孫・富永資隆が、三河富永氏の祖となる。三河富永氏の祖・富永資隆は、家名を祖父・親兼が名乗った富永六朗太夫に求めたと思われる。では、親兼は、何をもとに富永六朗太夫を名乗ったのであろう。
 清和源氏の一族が領地の名を家名としたことは知られている。上州新田(群馬県)を領地とした新田氏であり、下野足利(栃木県)を領地とした足利氏である。さらに、足利氏の支族は、分国三河に土着し、その在地の名を冠し、吉良(愛知県幡豆郡吉良町)、今川(愛知県西尾市)、細川(愛知県岡崎市)、仁木(愛知県岡崎市)を名乗っている。また、藤原氏の一族・近衛、一条等は、邸のあった地を家名とした。親兼も、これらの例に倣ったのであろうか。親兼の祖父・伴助高は、八名・設楽の領主であった。そして、助高は、宇利富永に住んだという。
 富永の家名は、親兼の祖父・伴助高が住んだという宇利富永に因むものであろうか。しかし、親兼は、設楽の領主であり、父、資兼も設楽の領主である。宇利は、中世に八名郡を宇利荘といったことから八名郡を指すと思われる。しかし、親兼も資兼も設楽の領主であり、八名の領主ではない。また、八名郡内に富永の地名が存在した痕跡もない。仮に、八名郡内に富永の地名があったとすれば、設楽の領主・親兼が、富永を家名とするより、八名・設楽の領主・伴助高の子・八名太夫を号した助親が富永を家名とすると思われる。しかし、八名太夫を号した助親に連なると思われる八名に鎮座する大伴神社神主家は、加藤を家名とする。
 八名・設楽の領主・伴助高が、宇利に住んだという富永系図の記載は、富永氏が、出自を求める三河大伴氏の遠祖・倭宿祢を祭神とする大伴神社の鎮座する八名郡に発祥の地を求めたものと思われる。  富永六朗太夫を名乗った伴親兼は、設楽領主である。新田、足利のように領地の地名を冠するなら設楽を家名とする筈である。富永系図は、親兼の父を設楽太夫、子を設楽太郎、そして、孫を三河設楽氏祖・設楽資時とする。しかし、この記載も、幡豆の関係と同様に割引いて考える必要がある。設楽氏は、戦国を生抜き家康に従い江戸に入府し、八王子千人同心として明治まで続くからである。
 いずれにせよ富永六朗太夫を名乗った伴親兼が、設楽を領地としたかはかわらない。旧設楽郡(新城市及び南北設楽郡)に目を向けると新城富永神社(新城市宮ノ後)がある。しかし、新城富永神社は、慶長八(一六〇三)年、下平井村(現新城市平井)の天一天王社の分霊を勧請したものであり、明治の神仏分離令までは、天一天王社と呼ばれていた。また、設楽郡の大部分が富永荘と呼ばれるが、これは、富永直郷が、野田館垣内城主となった以降のことである。さらに、新城市に富永の地名があるが、この富永の地名は、明治に草部村、夏目村等数村の合併によりできたものである。
 旧設楽郡内の富永の地名は、伴親兼が、富永六朗太夫を名乗った以降のものである。伴親兼以前に遡れるものはない。富永系図の伴助高が、宇利富永に住んだとする記載は、設楽郡内に伴親兼以前に遡れる富永の地名がないため、実在の確認できる伴助高の住んだところを富永としたと思われる。以上から富永の姓が、領地を家名とした確立は、少ないと思われる。  八名・設楽の領主・伴助高の子・八名太夫を号した助親は、大伴神社神主家に連なると思われる。しかし、大伴神社も古社とはいえ、山自体を信仰の対象とする石座神社のように縄文に遡れるものではない。大伴神社は、石座神社の里宮的な存在だったのではなかろうか。そして、三河大伴氏は、元々、設楽を本拠としていたのではないか。大伴神社神主家を除き、三河大伴氏は、設楽と関係が深いからである。そして、三河大伴氏は、設楽郡内の唯一の式内社・石座神社の祭祀にあたっていた可能性は高いと考えられる。

●安日伝承の原像

 前節で、三河大伴氏が、石座神社の祭祀にあたっていた可能性が高いことが立証できた。本節では、富永の姓が長髄彦に由来するか否かについて考察する。
 長髄彦は、記紀の神武東征の条に記載される人物であり、神武東征以前から大和盆地にいた縄文の流れを汲む先住者である。神武軍は、長髄軍との初戦で敗退する。神武の兄・五背は、長髄彦との戦いで負った傷がもとで死んでいる。神武=後の大和朝廷にとって、長髄彦は、不倶戴天の敵である。「神武東征」以前、大和盆地は、磯城県主により治められていた。そして、磯城県主は、縄文の流れを汲み縄文に遡る三輪山の祭祀にあたっていた。長髄彦は、大和盆地の先住者・磯城県主を象徴的に表わした人物である。倭宿祢は、火明命の三世孫であり、その名から大和を本拠にした豪族と思われる。また、三河富永(大伴)氏は、縄文に遡る石座神社の祭祀にあたっていた可能性が高い。
 記紀では、長髄彦は、殺されたことになっている。しかし、長髄彦は、殺されたとしても、長髄彦の一族が、三河に逃れてきたことは考えられる。そして、三河に逃れてきた長髄彦一族が、三河大伴直となり、その祖を倭宿祢とし、三輪山と同様、縄文に遡る石座神社の祭祀にあたったと考えられる。しかし、ここに一つの問題が残る。「神武東征」の主戦部隊を率いていたのも大伴連等の祖・道臣だからである。つまり、「富永」の姓に由来するという長髄彦を撃った側も大伴氏であり、祖父が、出自を求める倭宿祢も姓の違いこそあれ、大伴氏だからである。
 古事記は、長髄彦を撃った側の大伴連の祖について、天孫・邇々杵が、筑紫の日向の高千穂の櫛振岳に降りたとき天忍日がいたと記載する。そして、天忍日は、大伴連の祖であると記載する。天孫・邇々杵の孫が神武である。そして、古事記は、天孫・邇々杵が筑紫に降臨したとき、既に天忍日は、筑紫にいたとする。天忍日は、邇々杵が、筑紫に降臨する以前から筑紫にいたことになる。また、神武東征以前に饒速日命は、河内哮峯に天降ったとされる。
 饒速日命の東遷は、天孫・邇々杵の筑紫侵入により、邇々杵の支配を嫌い大和に逃れたのではないかと考えられる。また、筑紫(北部九州(韓半島南岸を含む。))の先住者には、饒速日命に従った者もいれば、邇々杵に帰順した者もいたであろう。筑紫の先住者のうち邇々杵に帰順した者の一人が道臣(ミチノオミ)となり、神武東征の正規軍を率いたのであろう。
 旧事紀の巻一・神代本紀は、天忍日と伊邪那岐、伊邪那美と同列に記載する。伊邪那岐、伊邪那美は、邇々杵から三代遡る。
 旧事紀の編者は、大伴連等の祖・天忍日を邇々杵の天孫降臨以前から日本列島にいたと認識している。さらに、天孫本紀尾張氏系図及び海部氏本紀で天忍日の弟とされる天忍日を古事記神代条大八州の生成の項で知訶島(長崎県五島列島)の別名としている。大伴氏は、弥生文化到来の遥か昔から、日本列島にいた縄文人であったのであろう。そして、大伴氏のうち天孫・邇々杵にいち早く帰順した者が、道臣・大伴連祖となり、饒速日命に従い大和に遷った者が、倭宿祢=大伴直祖となったと考えられる。  富永氏は、記紀により貶められた長髄彦に象徴される先住者(倭宿祢=天忍人・天忍日)の血の記憶から、富永の姓の由来を登美那賀須泥毘古に求めたと考えられる。
 石座神社の境内には、荒波婆岐社が鎮座すること、「安日伝承」を伝える確認される最古の系図、「藤崎系図」が成立するのは、永正三(一五〇六)年、奇しくも千若丸夭逝の翌年であることを付しておく。

●富永系図と木地師

 野田館垣内城主・富永久兼の子・千若丸夭逝により田峯城主・菅沼定忠の三男・竹千代こと後の菅沼新八郎定則が野田館垣内城に入城する。千若丸夭逝から三年(一五〇八)年、菅沼氏は、野田館垣内城の北に新たに野田城(新城市豊島字本城)を築き居城とする。豊川の流路が北に寄ってきたため、しばしば洪水による被害を受けたからである。
 野田館垣内城跡は、海倉淵(カイクラブチ)と呼ばれる。海倉淵は、竜宮に続くといわれ、一つの伝説を残す。「椀貸し伝説」である。「椀貸し伝説」は、轆轤を操り木製食器を製作する漂泊の民・木地師と定住農耕民との交易が伝説化したものである。「椀貸し伝説」とは、「ハレ」のときなどの人が大勢集まり、たくさんの御椀が必要なときに必要な数を書いた紙を池や川の淵などに流す。その紙は、池や川の淵に吸い込まれていき、やがて、必要な数の御椀が浮かび上がってくる。あるとき、不心得者が蓋を欠かしたまま椀を返し、龍神の怒りに触れそれ以降は、願いを聞き入れてくれなくなったというものである。
 これは、村落共同体が、その物理的需要に基づき外部との交易を行う場合に生じるものであり、その外部の者と接触を忌避(異文化という穢れとのの接触を避ける。)しなければならないときに起る沈黙交易の一種である。「椀貸し伝説」において、村落共同体(定住農耕民)の忌避の対象となるのは、木地師(漂泊民)である。日本書紀にも沈黙交易の例が記載される。斎明天皇六(六六〇)年の三月の条の記載である。
 阿倍臣は、粛慎国の船団との戦いの前に海岸に絹、武器、鉄等を積み上げ海岸から退く。粛慎人(ツングース系の一部族)との接触を避けるためである。粛慎人が、物々交換に応じれば、和議が成立する。粛慎人は、一度は、絹、武器、鉄等を舟に持ち帰ったものの、わざわざ返しに来ため、戦いがはじまったというものである。
 これは、沈黙交易が最初から成立しなかった例である。しかし、この記載は、ある集団が未知の異なる集団と遭遇したときの行動パターンを考える上で貴重な資料である。  「椀貸し伝説」の中には、椀を授けるため池の中から出てきた手を引いたため、それ以降貸してくれなくなったというものもある。「河童の駒引」やアイヌとコロポックル(アイヌ語でフキの下に住む人を意味する。)の交易を思わせるものである。
 「河童の駒引」とは、河童が、馬を川に引きずり込もうとしたが、逆に馬主に捕らえられて、懇願のすえ助命される。河童は、それ以来、馬主の家で器物が必要なときは、夜中に馬主の家の軒先に器物を揃えておいたが、馬主の返済のミスにより途絶えたというものである。
 「椀貸し伝説」の舞台となるのは、川の淵である。椀を貸して呉れなくなるのは、不心得者が蓋を欠かしたまま椀を返し、龍神の怒りに触れるからである。富永氏の居城・野田館垣内城の跡の海倉淵は、竜宮に続くといわれる。竜宮には、龍神が住む。龍神は、海人の神である。「椀貸し伝説」の一方の当事者・椀の借手たる村落共同体は、椀の貸手を龍神と認識している。
 「椀貸し伝説」は、沈黙交易の一例である。沈黙交易は、交易の原初的な形態であり、交易に仲介者は存在しない。椀を貸す主体は、椀の作手たる木地師である。木地師は、生活糧を求め杣を漂泊する民である。いわば、山の民である。しかし、杣を漂泊する「山の民」は、対外的には、「水の民」として捉えられている。水の民として捕らえられるのは、三河冨永氏の遠祖・天忍人=倭宿祢は、海神・火明命に連なることと関係あるのではないか。

●穂国幻史考の記事を、管理人-穂国宮島郷常左府住・柴田晴廣さまの許諾を得て、転載させていただきました。
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/