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小倉氏
●剣梅鉢
●清和源氏満季流
 


 小倉氏は清和源氏満季流といい、承暦年代(1077〜1080)、小倉景実が愛知郡小椋庄に小倉城を築いたのが、そもそもの始まりと伝えられている。以来、小倉氏は小倉城を拠点として、愛知・神崎・蒲生三郡の東部に勢力を築いていった。
 『蒲生系図』によれば、源頼朝の旗揚げに馳せ参じて功を上げ、近江守護となった佐々木定綱の室は蒲生俊綱の姉であった。そして、俊綱の娘が小倉九郎の室となっている。このことから、小倉氏が鎌倉時代初期においてすでに相当の勢力を有していたことが知られる。以後、小倉氏は佐々木、蒲生氏と鼎立する勢いを示し、東近江における一方の雄として続いた。とはいうものの、小倉氏の事蹟が記録などから知られるようになるのは、応仁の乱当時を生きた小倉左近将監実澄の代にいたってである。
 ちなみに、小倉氏の出自に関しても諸説があり、『近江愛知郡志』では
 (1)小椋實秀の裔にて菅原氏
 (2)清和源氏多田満季の裔より出たもの
 (3)佐々木満綱の子孫より出た家
の三説を紹介し、(1)に関しては小倉氏の家紋「梅鉢」からうなずけるところだが小椋實秀なる人物が確認できないこと、(2)に関してはその根拠となる系図が南北朝時代で終わっていてそれ以降を継承する正本系図が存在しないことを注記して、それぞれ疑問を呈している。そして、『尊卑分脈』の小椋源氏系図、個人所蔵小椋氏系図を掲載している。
 一方、『近江蒲生郡志』では、蒲生氏の一族として小倉氏を取り上げ、「小倉氏は愛知郡小椋を本拠とする清和源氏なり」として、蒲生氏と小倉氏の関係系図と小倉氏系図一本を併載している。

文武の名将、小倉実澄

 室町時代中期に至って、小倉家は庶子家を分出、宗家は蒲生郡佐久良庄に移り、佐久良城を築いて本城とした。さらに、本城のすぐ東にある長寸山頂上に長寸城、奥師に四谷城、鳥居平に鳥居平城等を築き、それぞれ家臣を入れて守らせた。
 さて、近江小倉氏においてもっとも著名な人物が、前述した小倉左近将監実澄である。実澄は三河守実方の嫡男で、蒲生秀綱の姉を母に生まれ、蒲生氏を継ぎ中興の祖といわれる貞秀(智閑)と同時代を生きた。また、実澄の室は蒲生秀綱の女で、貞秀の室とは姉妹という関係であった。
 二人が生きた時代は応仁・文明の乱の真只中であり、実澄と貞秀は義兄弟ということもあり協調して乱世に身を処した。横川景三の題した『小倉実澄寿像賛』によれば、実澄は多賀高忠と行動をともにして、犬上郡八尾城に出陣したとあるように、応仁の乱において京極方=東軍に属して活躍した。
 実澄は宋学を好み、禅に入り、詩歌に長じる一方、射術を多賀高忠に学び、世の人から文武兼備の武将と讃えられ、応仁・文明の乱において焼け出された相国寺などの禅僧を近江に招いて庇護を与えた。そして、文明元年(1467)、永源寺畔の越渓に識廬庵を作って相国寺の横川景三らを招き、翌二年、横川は識廬庵の記を著している。かくして、戦乱のなかにあって実澄は、おりをみては佐久良城から識廬庵を訪ねて横川らと詩酒交歓し、禅を談じたと伝えられている。
 系図によれば、実澄は永正二年(1505)三月に死去している。そのあとは実重が継ぎ、実重も蒲生氏から室を迎えている。実重のあとを継いだ実光は「さねはる」と読み、弘治三年(1557)に伊勢征伐に出陣した実春と同一人物と思われる。実光には男子がなかったため、蒲生定秀の三男実隆が迎えられて小倉氏の家督を継いだ。
 
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小倉氏の足跡を訪ねる


小倉氏の祖小倉景実が、承暦年代に築いた小倉城址。永禄年代、小倉氏の内紛で城主良秀が敗れて落城するまで、五百年間、小倉氏の居城として存続した。城址には堀切が残り、子孫の手によって小倉源氏発祥の碑が建立されている。


小倉氏が室町時代初期に築いた佐久良城址は、土塁・堀切などが見事に残っている。小倉氏の乱で、右近太夫が拠った小倉山上城跡。

→ 佐久良城址に登る


小倉実隆が祖父実澄の菩提を弔うために建てた曹洞宗の禅寺─神護山仲明寺。境内の墓地には、刻銘こそないものの小倉実澄・実重・実隆三代の墓石と伝える宝筺印塔が遺されている。山麓に鎮座する八幡神社は、小倉氏が勧請したもので、源氏の信仰した武神であり佐久良城の大手に相応しいものといえる。


小倉氏の乱

 ところで、実澄のあとを継いだ実重の時代には、小倉庶子家が自立を見せるようになり、永正七年の永源寺文書によれば、小倉兵庫介・同右京允・同左京允らが、六角氏の重臣伊庭出羽守から永源寺の田畠の荒廃を復興すべき沙汰書を発せられている。このように、小倉庶子家は六角氏の被官となっており、佐久良小倉氏にとって厄介な存在になっていった。
 小倉庶子家の存在は当時の記録に散在し、天文二十四年(1555)の豊満神社祭礼御次第に小倉実治の書名があり、実治は小倉西家の当主であった。ついで永禄二年(1559)の肥田城合戦に小倉左近進、同七年ごろ六角氏が浅井氏と抗争したとき小倉越前守・小倉右近大夫らの名がみえる。
 やがて、これら小倉庶子家と宗家との間に対立、抗争が起った。永禄七年、小倉右近大夫が兵を挙げると、小倉実隆はただちに出陣してこれを迎撃した。乱戦のなかで実隆は討死してしまったが、戦いは実隆の将速水勘解由左衛門の活躍で宗家方の勝利となった。しかし、この小倉氏の乱によって、永源寺は灰燼に帰し、多くの小倉一族が戦死し、伝来の文書・系図なども失われてしまった。
 小倉氏の乱は蒲生氏の陰謀とする説もあるが、小倉一族間の勢力争いであったとみるべきだろう。いずれにしろ、この乱にによって小倉一族は衰退を余儀なくされ、蒲生氏の麾下に属するようになったのである。

小倉氏の終焉

 かくして、小倉氏は蒲生氏に属して命脈を保ち、実隆の子作左衛門行春(行隆とも)は蒲生氏郷に仕えて、氏郷の妹を室に迎えた。天正十八年(1590)、氏郷が会津百万石に封じられると行春も行動をともにし、南山城を預けられ六千三百石を知行した。
 ところが、文禄四年(1595)蒲生氏郷が死去、嫡男秀行が蒲生氏を継いだが、家内不穏ということで宇都宮十二万石に減封されてしまった。これをきっかけに行春は蒲生家を去り、のち大坂に出て豊臣家に仕えた。そして、元和元年(1615)の大阪夏の陣において戦死したという。行春には二人の男子があったようだが、武家として近世には残らなかったようだ。他方、近江小倉氏の一族と思われる家で、徳川家光に仕えて六百石の旗本になった小倉氏が知られる。
 奥州盛岡の大名南部氏の二代利直の室源秀院は、『祐清私記』などに蒲生氏郷の妹となっているが、実は小倉作左衛門行隆(行春)の娘であったという。源秀院はお武の方ともいわれ、文禄元年(1592)南部利直と婚約し、慶長三年(1598)に利直に嫁ぎ、のちの三代藩主重直をもうけた。小倉氏宗家の血脈は、遠く奥州南部氏に受け継がれたといえようか。
 ところで、織田信長の側室の一人であるお鍋の方は、佐々木六角承禎の家臣高畠源兵衛の娘で、小倉右京亮の妻であった。右京亮は信長と早くから親交があったようで、信長と承禎が対立するようになると、右京亮は蒲生定秀に攻められて戦死してしまった。お鍋の方は岐阜に赴き、やがて信長の寵愛を受けるようになり二男一女をもうけた。このお鍋の方の前夫小倉右京亮は、小倉氏の一族の人物であったようだ。・2008年03月26日

参考資料:近江蒲生郡志/永源寺町史/蒲生町史/小倉実澄伝 ほか】


■参考略系図
・『近江蒲生郡志』に掲載されていた系図をもとに作成。
 
 

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