天慶の乱で平将門が滅亡した後、勢を得た平の貞盛は弟繁盛の子維幹を養子として、これに常陸の全領を与えた。維幹は常陸大掾に任じられ、以後子孫は大掾の職を世襲し、やがて職名が転じて家名となり、維幹の直系は大掾を名乗り、常陸平氏の本家となった。この大掾氏から吉田・豊田・行方・鹿島・真壁・東条・下妻・小栗の八支族が出た。 すなわち、維幹の孫繁幹の子重義が常陸国真壁郡小栗邑に拠り小栗氏の祖となったのである。しかし、系図によって異同があり、大掾氏の支流のひとつに小栗氏が出たとした方が間違いないようだ。 養和元年(1181)に起こった源頼朝の叔父志田義広の挙兵事件のとき、小栗氏は大掾氏に従って義広方に荷担している。また『寛政重修譜』には、重能(重義)は平治合戦において討死、その子重成は源平合戦のとき壇ノ浦で討死したことが記されている。その後の詳細は明確ではないが、重成の曾孫重信は南方を号し、さらにその曾孫重政の子たちから河澄・厚科・大関・金尾屋の諸氏が分出している。 重政の曾孫重弘の弟重満は応永十八年(1411)十月、鎌倉公方に叛して兵を挙げた。公方足利持氏は小山満泰をしてこれを討たせたが、思うにまかせず、同二十年持氏自ら兵を率いてはじめて制圧に成功し、敗れた満重は自殺した。満重の子助重は入道して宗丹と号し足利将軍家に仕えた。絵をよくし、当代の一人者と称せられた。 一方重弘の四世重昌は三河国平田合戦で討死している。重昌の孫の正重が徳川家康に仕え、以後子孫は旗本家として続いた。 徳川旗本─小栗氏 徳川旗本小栗氏には、清和源氏義家流を称する家があった。いわゆる徳川松平氏の分かれである。忠政のときに外戚の小栗氏を冒したもので、その子小栗忠政は家康の台頭期に、各地で奮戦、白地に黒の五輪塔の指物が血に染まって赤地のごとく見えたと『寛政譜』に記されている。のちこの指物が使番に用いられた。 使番の旗印は「五」の字の指物を誰もが差したがったが、上記の戦功のエピソードによって、従前からの「五輪塔」が特に許されたという。忠政は采地二千五百石。分知によって数流の庶家が出た。家紋は、桓武平氏繁盛流と同じ「立波」と「桐」を用いた。 →丸の内に小栗波
■参考略系図 |