文治五年(1189)七月、源頼朝はみずから二十八万の大軍を率いて奥州の覇者・藤原泰衡征伐を開始する。この奥州征伐に、千葉介常胤は八田知家とともに東海道軍の総大将として進軍、九月三日奥州厨川において泰衡を滅ぼした。九月二十日、平泉において論功行賞が行われ、常胤は、今までの例としてまず最初に拝領し、「陸奥五郡」を賜った。常胤はこの所領を子息たちに配分、奥州相馬氏や亘理氏は奥州の地を拠点として発展していくこととなる。さらに乱後、一族の葛西清重は平泉の統治と奥州御家人の沙汰の委任権をうけ、「奥州惣奉行」職に就任した。 葛西氏は、鎌倉に常駐し将軍の近侍を務め、本拠地である下総国葛西御厨の管理を行っていた。四代の清時は建長五年(1253)に隠居し、葛西氏家督を弟・清経に譲り奥州の領地へと下向する。そして建治二年(1276)、千葉介の子・胤信を養子として迎えて、奥州の領地を譲った。この時、千葉介は臼井常俊、千葉胤常、千葉胤氏の一族三人を胤信に附けて奥州へと下向させている。葛西氏に入った胤信は名を清信と改めて葛西太守となったと伝える。 また、この時代(寛喜二年から正安二年)奥州へと下向してくる千葉一族の名が諸書にみられる。奥州千葉氏はこれらの子孫といわれているが、いまに伝わる系図が混乱しているうえに、伝承がそれぞれその家に都合のいいように造られており、にわかにはそれら系図に記された所伝を信じることはできない。しかも、葛西氏や千葉氏の系図には通常考えられないほどの子供が記されており、この点でも信憑性にはいささか疑問が残るといわざるを得ないものが多い。 出自を考察する ちなみに、奥州千葉氏の出自については、主だった「先祖」だけでも「千葉介頼胤・右兵衛佐胤親・越前守泰胤・越前守康胤・甲斐守胤常・千葉介邦胤 」が挙げられる。また、千葉介常胤の子供たちが、奥州相馬氏、奥州国分氏、奥州武石氏(亘理氏)として続いている。さらに、千葉氏と祖を同じくし奥州総奉行として赴任した葛西氏の重臣にも千葉を称する武士、千葉氏を祖と称する武士が多くいたことは諸書から知られるところである。 仙台藩士の千葉氏の系譜には、千葉介邦胤の弟・千葉介良胤が原氏によって追放され、公津城に押し込められていたことが残されている。関東に残った良胤の弟・兵庫助胤繁、但馬守繁勝、越後守胤像、和泉守繁長も小田原落城ののちに奥州に逃れて大崎義隆に仕え、胤繁は中野目兵庫助と称したことが知られる。天正十九年(1590)、伊達政宗と大崎義隆が戦ったときには、政宗軍に斬りこんで高名をあげている。しかし、義隆が滅んだのちは伊達家重臣の片平大和守に仕え、大坂の陣では牧野大蔵の手に属して戦ったと伝わる。 さらに、奥州には桃生千葉氏、気仙千葉氏、鬼死骸・片馬合千葉氏、下油田千葉氏、揚生千葉氏、布佐千葉氏、下折壁千葉氏などの各流千葉氏が割拠していた。 片馬合千葉氏では、天正九年(1581)七月、東山長部城主・長部忠俊と葛西氏の家老黒沢豊前守信有との間で合戦になったとき、当主胤成はかつて領していた所領・西磐井鬼死骸白岩と黒沢の領する所が近隣であったことから、そのよしみで信有をたすけて活躍している。そして、天正十九年(1591)、豊臣秀吉軍と戦い敗れて自刃して果てた。 流郷の旗頭的存在であった下油田千葉氏は、旗頭峠城主・寺崎氏の一門と伝わり、流郷磐井郡下油田蒲沢館に住み、代々葛西氏に仕えた。天正七(1579)年、寺崎良次と富沢直綱との抗争では、良胤・道胤父子が寺崎氏に加わって活躍している。この戦功により良胤は東山横沢村に三千貫文、道胤は東山薄衣村に三千貫文、黄海村に二千貫文を与えられたとの感状が残っている。その後、父とともに栗原郡石越村にうつり、西門館に住んだ。葛西晴信は「君と余は同じ平家の末裔であるから葛西氏の一族として『三つ葉柏』紋を与えよう」と伝え、これ以降、下油田千葉氏(西門館千葉氏)は「三つ葉柏」が定紋となったとされる。 奥州千葉氏の終焉 天正十九年(1591)、葛西氏が秀吉の仕置きによって滅ぶと、道胤は旧臣たちを糾合して挙兵。栗原郡佐沼城に籠って秀吉の仕置軍に抗したが、同年七月二日に陣中で病死した。 下折壁千葉氏は、 長坂氏の一流と伝わる。長坂大膳大夫の子・重清が磐井郡聖澤郷折壁の下折壁城に入ったことに始まるという。長坂大膳大夫の事歴は不明だが、天正十八年(1590)四月十五日付で「長坂大膳代官鈴木下総殿」宛に出された葛西晴信の書状が残っていることから、東山長坂氏の通称だった可能性もある。 豊臣秀吉による奥州仕置の際、この軍を迎え討った大原飛騨守の旗下にいた千葉遠江守胤宗は、八代目下折壁城主と伝わる。 鎌倉時代に発した奥州千葉氏は、中世の各時代において奥州の地を舞台として一所懸命に生きたようだが、大名・小名として近世に続く家は残らなかったようだ。
■参考略系図 |