ヘッダイメージ



加藤氏(嘉明家)
下り藤/蛇の目
(藤原氏利仁流)


 加藤氏は藤原氏の一族といい、加賀の藤原からきたものといわれる。『尊卑分脈』によれば、源頼義の郎党藤原景道が加賀介であったことから「加藤」を称するようになったとみえている。加藤嘉明の加藤氏も景道の後裔を称している。景恒の代まで武田氏に仕え、その子景俊の時に三河国に移ったという。
 ところが、『寛政重修諸家譜』には「加藤左馬丞朝明。清康君に奉仕し、三河国加気郷を領して加藤を号す。長男加藤孫次郎教明、広忠卿・東照宮につかえたてまつり、永禄六年一向門徒に一味し、のち三河国を退去す」と記されている。一説に、左馬丞朝明は岸氏ともいうが、加気郷の所在および岸氏の出自は不明である。

嘉明の出世

 さて、教明が三河国を出奔したのは、永禄六年(1563)に起きた三河一向一揆に際して一揆に属し、主君家康と戦ったことが原因であった。三河を出た教明は諸国を遍歴したのち、足利義昭に仕え、ついで羽柴(豊臣)秀吉に仕え近江国矢島に三百石の知行を与えられたという。一方、教明が三河を出奔したとき、嫡男の嘉明は生まれたばかりの赤ん坊だったが、家人に抱かれて三河を脱出した。そして、十二歳の頃には近江国で博労していた。そして、十五歳のとき、美濃に馬を売りにいったとき、加藤景泰に見出され、その推挙を受けて羽柴秀吉に仕えるようになったと伝えている。教明の経歴、嘉明の博労説、いずれも確証があるわけでもなく、嘉明が一代で大名に出世したことだけは事実である。
 いずれにしろ、嘉明は秀吉の長浜時代に仕えたことは確かなようで、数少ない秀吉子飼いの家臣であった。秀吉に仕えた嘉明は信長の四男で秀吉の養子となった秀勝に付けられた。ところが、秀吉が中国に出陣すると秀勝の許しをえず従軍、秀吉正室の怒りをかったが、嘉明を見込んだ秀吉によって三百石の食録を受けて直臣に加えられた。天正十一年(1583)、秀吉と柴田勝家が戦った賤ケ岳の合戦で敵将浅井則政を討ち取る手柄を立て、加藤清正・福島正則らと並んで「七本槍」の一人に数えられ三千石を与えられた。
 天正十三年、四国征伐に従軍すると水軍を任せられて活躍、翌年、淡路国志智城主となり一万五千石を領する大名になった。翌十五年には九州島津攻め、十八年には小田原北条攻めに従軍、淡路水軍を率いて戦功をあげている。そして、文禄元年(1592)、朝鮮出兵が開始されると脇坂安治らとともに水軍の将として出陣したが、朝鮮水軍に苦戦を強いられ多くの戦死者を出した。戦後、一連の功によって加増を受け、伊予松前六万石に封じられた。
 慶長二年(1597)、ふたたび朝鮮に渡海、藤堂高虎・脇坂安治らとともに朝鮮水軍を巨済島の戦いで撃破する功をあげた。帰国後、三万七千石を加増され統べて十万石の大名に出世した。とはいえ、淡路島にある江善寺には「高麗陣打死衆之碑」が遺されていて、嘉明出世のかげには多くの兵卒の死があった。

加藤氏の浮沈

 文禄・慶長の朝鮮役は、磐石を思わせた豊臣政権に亀裂を走らせる原因となり、秀吉の晩節を汚す汚点ともなった。朝鮮に出兵した加藤清正・福島正則らの諸将(武断派)と、秀吉のもとで兵站を担った石田三成らの官僚(文治派)との間に埋めがたい溝が生じたのである。慶長三年、秀吉が病没すると豊臣政権をめぐって徳川家康と石田三成が対立、それに武断派と文治派の対立が絡まり、事態は泥沼化していった。そして、慶長五年、関が原の合戦が起こった。
 秀吉の没後、嘉明は家康に接近しており、合戦が起こると福島正則らと大垣城攻めに参加、関が原の決戦では黒田長政らとともに家康方として奮戦した。結果、十万石の加増を受け、二十万石を領する大大名となった。嘉明は勝山の地に拠を移すと、新たに松山城の築城に着手し、新しい城下町を松山と改めた。以後、徳川大名として順調に過ごし、慶長十九年の大坂夏の陣では江戸留守居役をつとめ、翌年の夏の陣では秀忠に従って出陣した。元和八年(1622)には、秀忠の世子家光の「鎧着初め」の式に鎧を着せる大役を果たした。
 そして、寛永四年(1627)、蒲生氏のあとを受け会津四十万石の太守となった。このとき、嘉明はいったん会津移封を辞退したが、重ねて命を受け辞すことあたわず会津に移住した。二十四年を費やした松山城が完成した年で、嘉明にすれば断腸の思いがどこかにあったのではなかろうか。ちなみに、松山には減封を受けた蒲生氏が入部した。
 嘉明の死後、家督は無事嫡男の明成が継承した。ところが、明成は重臣堀主人と確執を起こし、出奔した主人は明成謀反のことを幕府に提訴し、将軍家蜜の直截で主人の敗訴となった。それでもおさまらない明成は、「会津四十万石に代えても主水の身柄を受け取りたい」と訴え、主水の身柄を受け取ると極刑に処して溜飲を下げた。しかし、その代償は会津四十万石の改易処分であった。しかし、嘉明の勲功によって、明成の子明友に近江水口二万石が与えられ家名は存続した。

【参考資料:寛政重修諸家譜・戦国大名緒家譜・戦国武将総覧 など】



■参考略系図
   


バック 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧

応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋 二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
見聞諸家紋


戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
由来ロゴ 家紋イメージ


人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。 なんとも気になる名字と家紋の関係を モット詳しく 探ってみませんか。
名字と家紋にリンク 名字と家紋にリンク

www.harimaya.com