葛西氏の隆盛
詮清は高清の嗣子で、上洛して将軍義詮の偏諱を受けて詮清と名乗った。葛西氏中興の祖と称される葛西満信は『五大院系図』に「詮清五男の正嫡で、母は南部氏。陸奥権守。天性弓馬に達し、武略に長じ、奥州第一の名将」と記されている。異腹の姉が大崎探題詮持に嫁し、両家の提携が実現したことで家運興隆の機運に巡りあわせた。
応永七年(1400)、栗原郡三迫において、宇都宮氏広の謀叛を鎮定する大功を挙げた。宇都宮氏は奥州探題として下向し、仙道の四本松にいたのだが、明徳元年(1390)吉良満家が鎌倉に召還された跡を給されて栗原郡に入った。その後、奥州探題間に確執が頻発し、鎌倉公方足利満兼の忌避にふれた宇都宮氏は公方に対して兵を挙げ、大崎持詮、葛西満信、石橋棟義らに攻められて敗亡した。宇都宮氏誅滅の功により、三迫は葛西氏家臣富沢氏に配分された。かくして版図を拡大した満信は、葛西数代の名将は満信を第一とすと謳われるに至った。
また、満信は応永二十三年(1416)の「上杉禅秀の乱」では禅秀に味方をして鎌倉公方持氏に楯突いてもいる。子の持信は父の「反鎌倉的姿勢」に対して鎌倉公方を助けたが、「永享の乱」で鎌倉府が壊滅すると鎌倉の地から自国へ帰った。その後間もなく、大崎氏と確執を起こし合戦となった。これは、さきの宇都宮氏の乱後の所領配分により、葛西氏と大崎氏が領界を接するようになり、それが勢力争いに発展し干戈を交えるに至ったのであろう。
寛正六年(1465)には、葛西氏家臣の富沢河内守が大崎氏と衝突したことが「石川文書」から知られる。このように、葛西氏は大崎氏と抗争を繰り返すようになるが、この時期の葛西氏の系図は先述の「仙台葛西系図」「盛岡葛西系図」のことは措くとしても、混乱を見せている。それは、仙台・盛岡の両葛西氏系図が一致をみせる晴重のときまで続き、葛西氏の系図や事蹟を分かりにくくしているのである。
また、このころ葛西氏は居城を石巻から寺池に移し大崎氏に対して臨戦態勢をとったいうが、このころ寺池葛西氏と石巻葛西氏との間で養子縁組が行われており、そのことが居城を移したという風に伝承されたものと思われる。さて、葛西・大崎両氏の紛争の接点は栗原郡であった。そこを舞台に両氏は毎年のように戦いを展開することになるが、葛西氏の方ではそのまま大崎氏に当たることの不利を考えて伊達氏と同盟を結び、その中間の敵大崎氏を討つという戦略をとった。この戦略は、葛西氏の最後の当主である晴信の代まで堅持された。
争乱の萌芽
持信のあとは朝信が太守となったが、異母弟で石巻葛西氏の家督を継いだ満重が寺池太守をしのぐような威勢を持つようになってきた。文明十二年(1480)、朝信が死去すると尚信が太守となったが、満重は叔父の立場を利用して寺池に接近し内外にわたる干渉を行ったようだ。やがて、尚信が死去するとそのあとは満重が継ぐことになった。
寺池系図などでは、壱岐守(朝信)が死去し、あとを継いだ重千代(尚信)も早世したため、満重が一族や譜代衆の支援を得て葛西太守となったとしているが、おそらく、満重自身の策謀があったものと思われる。それを裏付けるかのように、満重改め政信を名乗って葛西太守となった葛西領には、次々と戦乱が発生している。文明十七年には、葛西一族の江刺氏が政信と衝突し、政信は熊谷氏らを率いて出陣し、高寺村で江刺氏と戦い、江刺勢を破っている。その後の明応四年(1495)にも、江刺氏は政信に反抗し、政信はまた高寺村で江刺氏と戦いこれを降服させている。
満重は寺池葛西氏を継ぐにあたって、伊達氏から迎えた宗清に日和山城を継がせて石巻葛西氏の当主とし、寺池葛西氏の嗣子には孫にあたる重信を据えている。このように、葛西氏は寺池系と石巻系とは密接な関係に結ばれていた。しかし、戦国時代になると二系に分かれて領内に争乱が頻発し、葛西氏の戦国史を分かりにくいものとしている。
なかでも複雑を極めたのは、明応七年から八年にかけての争乱であろう。この争乱は奥州探題大崎氏の内紛が葛西領内にも波及したものといわれ、大崎氏からの支援依頼を入れた薄衣・江刺氏らと、葛西太守政信と葛西氏重臣の柏山・大原氏らとの対立抗争であった。このとき、薄衣入道が伊達成宗に救援を求める書状を送ったのが有名な「薄衣状」である。この争乱は、葛西領全域におよぶ一大争乱となったが、伊達成宗の取りなしで一応の解決を見せたが、葛西太守に対する反抗や、家臣間の対立などが複雑にからまったものであった。
『平守寛葛西系譜』によれば、「奥州諸将引き分けて合戦、葛西家も次第に衰え探題の名計と云」とあり、明応の合戦以後、葛西氏は家臣の統制や領内の支配に苦しむことになる。大崎氏と葛西氏との対立は、この後も天正時代にいたるまで止むことがなく、しばしば合戦が行われた。
葛西領内の争乱
永正三年(1506)政信が卒去し、重信が葛西太守を継承した。同十一年、重信は嫡子の守信とともに上洛し、将軍義稙に拝謁、左京大夫に任じられ、一字を拝領して稙信と改めた。
ところで、葛西政信の嗣子として迎えられ石巻日和山城主となっていた宗清は、永正八年の秋、翌九年の秋の二度にわたって桃生郡の有力者山内首藤氏と戦い、永正十二年、首藤貞通父子を桃生郡から追い出した。この合戦は「永正合戦」と呼ばれ、合戦後、宗清は石巻から寺池に居を移している。このことから宗清が葛西太守を継いだとみるものもあるが、これは、合戦の始末のために寺池の太守の許に参じて、そのまま戦後処理にあたったものであろう。
とはいえ、葛西宗清は石巻派の諸将に後押しされ、なかには宗清が太守になることを画策するものもいた。たしかに、宗清は伊達家から養子に入ったとはいえ、政信の嗣子の立場にあった。本来ならば、満重が寺池を継いだとき、宗清もともに寺池に移ってもおかしいことではない。しかし、満重は宗清を石巻城主とし、寺池の正嫡には廃嫡した重親の三子重信を迎えた。そのようなことがあって、稙清は宗清をみずからの片腕として寺池に迎えれば石巻派の諸将の心も和らぐのではないかと考えたようだ。そして、宗清を寺池に留まらせていたが、逆にそれをよいこととして宗清を太守にしようとする動きが活発化した。それに対して寺池派の諸将も黙ってはおらず、事あるごとに両派の対立が起こった。それに加えて、葛西宗族と呼ばれる一族や本吉北方の熊谷氏らが葛西太守に反抗を繰り返した。これは、政信が石巻から出て寺池を継いだことに対する反感であったようだ。
このようななかで、稙宗は派閥にとらわれず家中の政治に当たっていたようだ。しかし、領内の争乱は果てしなく続き、さすがにやりきれい思いにとらわれていったと考えられる。そして、稙宗はこの状態が子々孫々まで続くことだけは避けようと考えた。その一つの手段が葛西氏の系図の改竄であったようだ。すなわち、石巻系と寺池系を一つとし、その意図で作成した系図を高野山の五大院に預け置いた。系図を書き換えたぐらいでは、領内の争乱がおさまるはずもないが、時代が下るにつれて葛西氏が一系であったとすることで争乱が止むことを願ったのであろう。また、五大院系図に宗清の名がないこともそのことを裏付けているように思われる。
大永二年(1522)、稙信は将軍義晴から一字を賜り晴重と改名したという。そのことは、五大院系図には見えないことから、稙信を名乗っている時代に預け置いたものと想像される。
打ち続く争乱
葛西氏家臣の所領は、郷(邑)単位となっていて、地頭である家臣は邑主などと呼ばれていた。室町時代になると采邑のなかに采地が分けられ、新入りの地頭や合戦における行賞などで分かち与えられた。当然、采地となる場所は、本来の邑主の手の及ばないところであったと思われるが、邑主としてはみずからの所領を侵略されたように思われ、至るところで所領争いが引き起こされ、それが葛西領争乱の複雑な要因ともなっていた。
永正年代、本吉郡馬籠邑主の馬籠修理は、手勢を率いて葛西宗族である朝日城主本吉大膳と合戦している。これは、葛西氏の一族である本吉氏が歌津邑を与えられたが、歌津邑は馬籠氏の采邑であった。そこへ本吉氏が采地を分け与えられたとき、馬籠氏には何の連絡もなかったため、合戦となったものであろう。ついで、天文二年(1533)、気仙沼赤岩城主の熊谷備中が葛西家に叛逆を企てた。
熊谷氏の叛逆の理由は明確ではないが、太守稙信はただちに兵を発して赤岩城を討伐している。この乱において熊谷氏は二派に分かれて戦い、いままで熊谷氏の惣領であった赤岩熊谷氏が滅亡し、太守に従った長崎熊谷氏が惣領となった。ひょっとして、赤岩熊谷氏の反乱には熊谷氏の威勢を削ごうとする太守の策謀があったのかも知れない。
このように領内騒然としたなかの天文二年(1533)、晴重(稙信)が死去した。晴重には守信と高信の二人の男子があり、嫡子守信は男子が無かったため伊達稙宗の子三郎晴清を養子に迎えていた。そして、晴重のあとは守信が継ぎ、そのあとは晴清が継ぐという路線がしかれていたようだが、守信は父に先立って死去しており晴清が高信の後見を受けて家督を継承した。一説には、晴清が若年であったため、早い時期から晴重を助けて活躍を示していた高信が家督を継いだとするものもある。
伊達氏の葛西領侵攻
ところで、守信は将軍義稙の一字を拝領したと思われる稙清を名乗ったとするものもあり、父晴重の譲りを受けて葛西氏の家督を継いだとも考えられる。いずれにしろ、守信(稙清)は享禄元年(1528)に死去したが、稙清の死に乗じた伊達稙宗が会津の葦名盛舜の支援を得て、葛西領内に侵攻し居館を陥れたという。しかし、稙清の没年は、「葛西盛岡系図」や「高野山五代院系図」などには享禄四年(1531)とされており、おそらくこちらの方が正しい没年であろう。
さらに、葛西家臣譜などにも享禄元年の合戦記録はなく、享禄四年に合戦があったと伝えているものが多い。すなわち、登米郡から佐藤信固父子、桃生郡中野から佐藤信孝、東山小梨から西条景則、流庄奈良坂の奈良坂貞信、西磐井黒沢郷からは黒沢信資らが合戦に参加し、佐沼および新田方面で激戦が行われたようだ。この戦いは、享禄四年の守信の死をきっかけに行われたものであろう。合戦の結果は西方に「討死、腹切る者数知らず」と伝えられるように葛西軍が惨敗し、前記葛西家臣らは討死し、黒沢氏はこの合戦をきっかけに衰退したと家譜に伝えている。
葛西稙清の死は、葛西家臣団のなかに反伊達の気運を高め、伊達から養子に入った晴清の相続の道が断たれた。それを知った稙宗は葛西氏の違約に憤り、軍を葛西領に入れたのであろう。もっといえば、稙清の急死は反伊達派家臣による暗殺の疑いも残る。
合戦の顛末は定かではないが、おそらく葛西氏に鉄槌を下したであろうと思われる伊達氏により、晴清相続の線で一件落着したものと思われる。ところが天文十一年(1542)、伊達家中では伊達稙宗と嫡男晴宗とが争う「天文の乱」が起こり、晴清は父の稙宗側へ、守信の弟高信(のちに晴胤)は晴宗方へ付き、互いに抗争を繰り返した。しかし、晴清は乱の最中の天文十六年に二十代後半で病死してしまった。
こうして、葛西氏の家督は高信が相続し、将軍義晴から偏諱を受けて晴胤を名乗った。しかし、一説には晴胤は晴重のあとをつぎ、国分氏の仲介で伊達氏と和睦し、晴清は叔父信重の嗣と定めて桃生郡を分けてその地に移し、晴清を後見する立場で事実上の葛西太守の座に就いたとする。そして、天文の乱後、勝利した伊達晴宗が稙宗派に属した晴清を粛正したのだともいわれている。
ところで、高信は晴重の実子ではなく伊達稙宗の子とするものもある。ということは晴清の兄弟ということになり、葛西氏が同時期に二人の養子(しかも同一人の男子)を迎たということは不自然であり、晴胤は晴重の実子とすべきであろう。また、晴胤は石巻から寺池城主小野寺美濃守の城へ移ったという説もあるが、これも、寺池には葛西氏が太守として代々居城としていたことから信じることはできない。晴重から晴胤に至る時代の葛西氏の歴史は、家督継承、伊達氏との関係など不明な点が多く、仙台葛西氏系図の記述を裏付けることを意図してつくられた話が、それらの不明点の背景に見えてくるのである。
一族、巨臣の反乱
葛西太守となった高信は天文十六年、左京大夫に任じられ、探題となり、足利将軍義晴から一字を賜って晴胤と改名した。そして、弘治元年(1555)に死去したと伝えられる。晴胤のあとは嫡男の親信が継いだが、病弱であったためわずか五年後に死去してしまった。そのあとは兄親信を助けて家政をみていた信清が家督となり、のちに晴信と改めた。以後、この晴信が永禄・元亀・天正と三十年間にわたって葛西領内の争乱の鎮圧と、大崎・伊達・南部氏らの諸大名との合戦に明け暮れ、文字どおり東奔西走することになる。
永禄七年(1564)、命に背いた本吉郡の馬籠四郎兵衛を征伐し、天正二年(1574)には、本吉郡の本吉大膳の乱が発生し、横山村北沢におおいて合戦が行われ、太守葛西晴信が出馬したことで鎮圧した。本吉大膳は翌年にも争乱を起し、太守に鎮圧されている。ついで七年には、三の迫岩が崎城主の富沢日向守が乱を起した。富沢勢は流の庄に侵入して合戦となったが、太守晴信の命令によって続々葛西方の諸勢が到着して、富沢勢を押し返し富沢を屈服させている。
天正十四年には、本吉郡で馬籠四郎兵衛と本吉大膳との間で籠四郎兵衛と本吉大膳との間で合戦沙汰があったと「葛西真記録」にある。その翌年には、本吉大膳と気仙郡高田城主浜田安房とが衝突し、翌十六年には浜田安房が乱を起し、近隣を侵して勢力を拡大していった。浜田安房の乱を知った晴信は、領内の諸勢に出動をうながし、みずから気仙郡に出陣して、浜田勢を押し返した。その後も浜田の兵乱は続いたが、結局、太守の討伐の前に鎮静化していった。
まさに、玉突き状態のように領内に争乱が続いた。晴信は決して凡庸な当主ではなかったが、領内の一族・巨臣の反乱に悩まされ、結局、強力な大名領国制を確立することができなかった。これは、葛西氏と戦った大崎氏にも共通するところだが、旧い体質を改善できないまま豊臣秀吉の奥州仕置きを迎えたところに葛西氏の限界があった。
奥州仕置と大崎・葛西一揆
天正十八年(1590)春、葛西氏にも豊臣秀吉の小田原陣に参候すべきか否かの決断を迫られる運命の日が巡ってくる。結論からいえば、晴信は参陣を果たすことができなかった。その結果は、秀吉の「奥州仕置」によって所領没収の憂き目に合う。晴信が小田原に参陣できなかったのは、領内家臣の抗争を鎮圧するのに日時を要し、その機を逸したためとされる。しかし、中央政権へ通ずる先進的外交を欠き、大局を見切れなかった判断の甘さが最大の原因であったことはいうまでもないだろう。
また、辺境ともいえる奥州にあって、伊達家周辺の大名・国人衆は、上方の情報を伊達氏という一つのフィルターを通して見ていたという側面もあった。すなわち、伊達氏がもたらす二次情報に依存する、あるいは伊達家の行動そのものに眩惑されることで、道を誤ったというのも一因として挙げられよう。いずれにしろ、葛西氏の命脈は断たれたのである。
ところで、天正十八年七月、伊達政宗は葛西晴信に書を送り「奥州の義は申すに及ばず、出羽に至るまでも御仕置は当家へ仰付らる」と報じている。小田原にいたこの時の政宗は、まさに葛西家を足下に踏まえた代理人というより連合国統領の姿勢であった。
『葛西真記録』によると、天正十八年七月、後北条氏を降した豊臣秀吉は「仕置軍」を奥州に派遣した。主力になったのは蒲生氏郷・木村弥一右衛門の軍で、伊達政宗は案内役をつとめた。これに対して葛西方は桃生郡深谷の神取山、栗原郡森原山に陣を構えて仕置軍を迎え撃った。しかし本城の寺池城は重囲に陥って落城し、晴信は戦火のなかで自刃し葛西氏は滅亡したと記されている。葛西軍が配陣して戦闘態勢をとったのは充分に考えられることだが、はたして領内で大激戦が展開したかどうかは疑問とされている。『大崎記』には「将軍の御勢いに向い一戦すべきようなく同八月おちうせにける」とあるように、天下の仕置軍の威容を目のあたりにして、戦意喪失、逃げ散ったというのが真相ではなかっただろうか。
おそらく、翌十九年の葛西・大崎一揆における佐沼城の撫で斬り事件、すなわち伊達氏の手によって行われた虐殺事件が、十八年の豊臣仕置軍や木村伊勢守の手によって行われたように書き直されたものであろう。天正十八・十九年と両年にわたり、同じ場所で同じような大事件が発生したとは考え難い。
佐沼落城の際、葛西晴信は本城の寺池城に戻って蒲生・木村軍に降服した。豊臣政権も葛西氏をまったく潰すわけにもいかず、晴信に対して黒川郡大谷に領地を与えた。新封地に移った晴信は、熊谷豊後守などに知行が永代相違なしの書信を出している。そして、伊達政宗に通じて家名再興に希望をつないだようだ。葛西氏再興の運動が持ち上がったことは『熊谷文書』などで知ることができるし、蒲生氏郷が政宗に宛てた同年十一月の書簡に「葛西身上の事」と書かれていることでも推測できる。しかし、同年秋におこった葛西大崎一揆の発生のため、葛西氏再興は挫折した。
葛西氏の終焉とその後
葛西・大崎一揆は、奥州に新しく来住した領主木村伊勢守吉清・清久父子の暴政に対する旧武士団の反抗であったが、その背景には伊達政宗の扇動があったとされる。叛乱は政宗の目論見通りに運び、十九年には葛西大崎旧領が伊達家の所領に内定することで伊達軍団総動員による一揆討伐が行われる。昨日までの盟主が恐るべき敵に変貌したのである。春には大崎領の宮崎城攻略に続いて登米郡佐沼城が包囲され、一週間の攻防ののち陥落し、有名な佐沼城の「撫で斬り」で二千五百余人が討ちとられた。さらに、同年八月には桃生郡江糠塚山で、多数の一揆物頭衆がだまし討ちで全滅し、伊達氏の相次ぐ術策と蹂躙の中で一揆勢は息の根を止められたのである。
かくして家名再興の道も閉ざされた晴信は、文禄三年ごろ、加賀の前田利家にお預けとなり、娘二人を連れて加賀に移住した。それから三年後の慶長二年(1597)、失意のうちに晴信は死去した。享年六十四歳であったという。
一方、『貞山公治家記録』には、所領没収後の晴信は大崎義隆とともに上京して上杉景勝に属したと記されている。慶長五年七月、関ヶ原の戦いに先立って伊達政宗は刈田郡の白石城に籠る上杉勢を攻撃してこれを降した。このとき、城将登坂式部少輔とともに伊達軍に降った人物のなかに、葛西長三郎がおり、同家中富沢吉内・黒沢豊前・高野佐渡守らの名が見える。長三郎は晴信の長子清高で上杉家臣として二千石を知行していたといい、城を出たあとは行方不明となった。
富沢・黒沢らも葛西氏の重臣であった人物たちであり、晴信が上杉氏に属したとする『貞山公治家記録』の記事は、信頼できるのではないだろうか。とはいえ、葛西氏一族がすべて晴信に従ったわけではなく、晴信の甥にあたる重俊の次男俊信は政宗に仕えて準一家に列せられ、長男の重信は政宗の長男秀宗に付けられて、秀宗が宇和島藩主となると、それに従って宇和島に移った。
他方、南部氏に臣従した葛西氏は、晴信の子勝兵衛延景から出るといい、足利義昭御内書をはじめ、細川高国書状、細川晴元書状など、葛西氏に宛てられた貴重な書状を伝えていたことが知られている。いずれも室町幕府中枢に身をおく人物と葛西氏との交渉を伝える文書で、南部氏に仕えた葛西氏が葛西一族のなかでも中心的な位置を占めていたことをうかがわせる。南部家中葛西氏に伝わる系図によれば、晴信は本領没収後、閉伊郡遠野に潜居してその地で没し子の延景が南部氏に仕えたという。この所伝は、『葛西真記録』『貞山公治家記録』などに記された記述と矛盾したものであり、全面的に信頼はできないものといえよう。
このように、葛西氏の子孫は江戸時代に至って仙台葛西・宇和島葛西・南部葛西の三家が名字を伝えたが、中世の葛西七郡の太守の後裔としてはまことに寂しものであった。
「サイカチ」伝説
葛西氏の時代が終焉すると、家臣団もそれぞれ保身の道を選んだ。先述の葛西氏傍系の重俊はじめ伊達家に仕える者が多かったが、大身の柏山・江刺・長坂・浜田・大原氏らは南部氏を志向した。栗原郡三迫の富沢幽斎は伊達寄りで、天正十八年小田原の政宗から親書を送られた者であったが南部家に仕えた。おそらく、幽斎は佐沼城における政宗の処置に含むところがあったのだろう。その後幽斎は、慶長六年(1601)に起こった和賀氏の乱で、南部の将として出陣し伊達軍の剛将鈴木重信と一騎討ちを演じ、鈴木を討ち止める功を挙げている。
葛西遺臣らは門前にサイカチの木を植え、同志の目印にしたという。「カサイカツ」を「サイカチ」になぞらえ合言葉として再起を誓ったものといわれる。「サイカチ」伝説は、戦国の非情に翻弄された葛西家遺臣の声なき怨みの声であったといえよう。
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