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浄法寺氏
裾 濃*
(桓武平氏畠山氏流)
*畠山氏伝統の紋。後裔は「桐」を使用しているという。


 桓武平氏秩父権守重綱から出た畠山氏の分流。秩父重能は畠山庄司になり、畠山に移り住み畠山を称した。重能の子が畠山重忠で源頼朝の信頼が厚く、鎌倉武士の典型と仰がれた。北条時政の娘を娶り頼朝とは相兄弟の仲でもあった。
 元久二年、重忠の嫡子六郎重保が北条時政の後妻牧の方の娘婿平賀朝雅と争って時政に殺害され、重忠は武蔵二股川で幕府軍と戦って討ち死した。これは、時政が画策していた朝雅将軍擁立計画を打倒するために、北条義時がたてた策に畠山氏が利用された結果とされる。
 この時、武蔵国慈院二十九世別であった三男の畠山小次郎重慶は、陸奥浄法寺に逃れ、還俗して重慶と名乗り浄法寺氏の祖になったという。
 戦国期の居城浄法寺城は東西約400メートル、南北700メートルの広大なもので、三戸・九戸・八戸と並ぶ南部勢力の有力者であったことをうかがわせる規模であった。特に糠部から鹿角に通じる要衝を押さえていたことから「鹿角の大将」とみなされていた。天正末年に秋田氏と南部勢力が比内をめぐって戦ったとき、南部方の武将として「九平九郎(九戸政実か?)外一類」の「浄法寺修理介」の名が見え、これが当時の当主修理介重安かと思われる。三戸南部晴政・信直の時代に活躍した修理もこの人物か。
 しかし、重安の嫡男重好は、慶長五年、最上出陣や和賀兵乱には120人を従えて出動しており、南部にあっては八戸・九戸に次ぐ大身であった。和賀兵乱の際、南部利直は一時休戦にして、和賀に浄法寺重好を置き、三戸に帰ったが、重好はひそかに居館に帰って戦陣の規律を破ったため、慶長八年知行家禄屋敷を没収され、その身は蟄居となり、分流松岡家に預けられ浄法寺氏は断絶した。

●秩父一族の家紋─考察


■参考略系図
    


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