岩城氏は桓武平氏繁盛流(維茂流ともいう)で、隆行が陸奥藤原清衝の女婿となり、その子維衝は、岩城郡を領して岩城次郎と名乗った。根拠地は、本家が石清水八幡宮領吉島庄で、源頼朝からこの地の地頭職を安堵され、預所の伊賀氏に対抗しつつ、勢力をたくわえていった。 南北朝の内乱期には、はじめ南朝かたについたが、のち北朝に転向した。岩城一族は次第に好島荘領所職の伊賀氏の支配を排除し、岩城惣領の隆泰は文和三年ころに伊賀盛光に代わって岩城郡の守護を努めていたとみられる。これ以前、岩城惣領は好島氏であったが、南北朝末期〜室町初期に白土常朝がその地位についたとされる。そして、室町中期隆忠のときに伊賀氏が完全に岩城氏の支配下に属し、各地に散在する一族を従え、いわき地方を統一し、戦国大名への道を歩んだ。 戦国期には、本拠を飯野平に移し、伊達・相馬・佐竹・田村・石川ら周囲の諸勢力と対立、永禄年間(1558-69)に岩城重隆は相馬氏と戦いを交えたが、伊達晴宗の仲介で和した。重隆は娘を晴宗に嫁がせ、その子を養子にするなど、伊達氏との関係を深めた。 しかしその後、伊達氏の勢力がつよくなるにつれて、岩城氏と伊達氏の連携は破れ、天正三年岩城常隆は佐竹・葦名氏らとともに須賀川に出て、伊達氏の諸城の攻撃をはじめた。伊達政宗の南奥制圧が成った天正十七年、常隆は大挙して田村領に侵入し、田村南部を岩城氏の勢力下に入れた。 しかし、同年六月の摺上原の合戦で伊達氏は葦名氏を破り、ついで二階堂氏を攻めた。この合戦は南奥の情勢を大きく変え、白河結城氏、石川氏は伊達氏に帰属し、常隆も伊達政宗と講和した。天正十八年常隆は小田原に参陣したが、同七月に急死し、その跡は豊臣秀吉の取りなしで、佐竹義重の弟貞隆が継い出、所領十三万石を認められた。 関ヶ原の戦いでは東軍方になったが、徳川家康の上杉景勝征伐の不参加を口実に所領を没収された。しかし、元和二年、大坂の陣参加の功により信濃国川中島で一万石を与えられた。さらに貞隆の子吉隆は出羽国由利郡に移封され、同郡内において二万石を領有し、子孫は明治維新に至った。 ←岩城氏のページへ |