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信太氏
亀甲の内に葉菊
(権中納権紀長谷雄後裔)


 戦国時代、小田氏の重臣であった信太氏は、古代豪族紀氏の後裔といい、紀長谷雄を祖にするという。  紀氏は、貞観八年(866)の「応天門の変」で伴氏らとともに失脚し中央政界から遠ざかっていった。以後、紀氏一族は河内守・信濃守・三河守などの地方官を歴任している。
 十世紀には、平将門・藤原純友らによる承平・天慶の乱、十一世紀には平忠常の乱、前九年の役、後三年の役など地方で乱が続発した。これらの乱に活躍したのが、平貞盛、藤原秀郷、源頼信・義家らで、乱を契機として東国に勢力を扶植し、かれらの子孫が武士団として成長することになる。前九年の役では、下野紀氏の益子正隆・季方の兄弟が参加し戦功をたてている。
 信太氏の祖になる紀氏は、このころ河内国に拠点をもち藤原氏との関係を深めていたようだ。仁平元年(1151)、常陸国信太郡の大半が信太庄として藤原氏に寄進されると、藤原氏との関係から紀貞頼が信太の庄司として常陸に下向し、信太郡下高津に居館を構えた。のちに信太にちなんで信太氏を称するようになった。
 治承四年(1180)、源頼朝が平氏打倒の兵を挙げた。翌年、志太義広(頼朝の叔父)が頼朝に対して兵を挙げたが、小山氏の活躍であっけなく敗退した。この義広は信太庄領所であったが、この乱に、信太庄司頼康は参加していなかった。乱後、八田知家が恩賞地を常陸に賜り次第に勢力を拡大、かれの子から小田・茂木・宍戸の諸氏が分出するのである。
 ところで、八田氏が常陸に進出したとき、信太庄司はその家臣とはなっていず独立的立場にあったようだ。それが、文治四年(1188)、常陸守護八田氏の郎従庄司太郎が大内裏夜行番を怠けて投獄され、知家が脱獄させたことが『吾妻鏡』に記されている。庄司太郎は信太頼康のことといわれ、この『吾妻鏡』の記事から信太氏が八田氏の被官になっていたことがわかる。

小田氏の有力家臣となる

 八田知家の嫡男知重は小田氏を名乗った。知重のころは下野紀氏益子氏系の今泉氏が小田氏の有力家臣で、これと並ぶ存在が信太氏であった。時代が下って嘉元四年(1306)知重の曾孫小田宗知が没したとき、その後継をめぐって兄弟が対立した。今泉氏は弟の知貞を、信太忠貞は兄の貞朝を支援し、結局、貞朝が小田氏の家督となったことで、忠貞が小田氏の執事を務めることになる。しかし、この家督争いによって小田氏は常陸守護職を取り上げられ、一時、同職は一族の宍戸氏にわたってしまった。
 信太忠貞は田土部入道と称し、小田氏の執事として政治にあたり木田余に居を構えた。また、『東寺文書』によれば信太庄司を補さずとあり、信太庄司を務めた信太氏は地頭に代わっていたようだ。
 元弘元年(1331)、後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げ、翌々年には新田義貞が鎌倉に攻め込み、鎌倉幕府は滅亡した。小田貞朝の子高知は御醍醐天皇方に属し、偏諱を受けて治久を名乗り常陸守護職に返り咲いた。以後、小田治久は東国の南朝方の中心人物として活躍する。北畠親房が小田氏の居城小田城において、『神皇正統記』を著したことはよく知られている。
 このころの信太氏の当主は宗房で、田土部から土浦に居を移している。この宗房が、戦国期に頭角をあらわす菅谷氏の祖となる人物禅鉄を見い出したことになっている。
 興国二年(1341)、治久は高師冬に降伏して所領は没収され、常陸守護職は佐竹氏に移り、信太庄は師冬の支配するところとなった。かくて、小田氏は足利政権に忠勤を励むようになり、のちに信太庄も安堵された。

東国の戦乱

 永享十年(1438)「永享の乱」が起こり、小田治朝は鎌倉公方足利持氏に属したため信太庄を取られ、関東管領上杉氏の被官土岐氏が信太庄を支配することになった。そのため、信太家範は木田余に退き、子の輔範のとき木田余に城を築いた。
 持氏の敗北、自害によって一時滅亡していた鎌倉公方家が、文安六年(1449)再興され足利成氏が公方になった。成氏は父持氏に加担して所領を削られていた小田・小山氏らに失領地を還付した。やがて、成氏は父と同じく反幕府的姿勢を強め、管領上杉氏と対立、ついに成氏は管領上杉氏を殺害したことで「享徳の乱」が起り、東国は戦国時代に突入していくことになる。以後、成氏方と上杉=幕府方との間で合戦が繰り広げられた。
 小田氏は初め公方に属し、のち幕府に転じ、さらに成治の代になると古河公方成氏に味方し上杉方と戦った。明応五年(1496)成治の弟たちの間で争いがあり治孝が顕孝に殺されてしまった。このとき、信太掃部助は顕孝を殺したうえ、成治を隠居させてしまい、政治が小田氏の家督となった。政治は堀越公方政知の子ともいわれ、将軍義澄の弟にあたるといわれている。信太氏によって擁立された政治は、娘を輔範の二男で木田余城主の範宗の妻に与え、永正十三年(1516)菅谷勝貞が若泉氏を遂って土浦城を奪い取ったが、政治は輔範の弟範貞を入れ、勝貞を範貞の養子とした。
 ところで、信太氏の系図を見ると頼春のあと名乗りが変化をみせる。すなわち頼春のあとは家範であり、以後、範の字を名乗りに用いるようになっている。範の字は菅谷氏の名乗りにみられる文字であって、推測だが、家範は菅谷氏と関係が深く、あるいは養子に入った人物かも知れない。それが、のちに菅谷氏が頭角をあらわすことにつながり、信太氏に菅谷勝貞が養子が入ることにもなったのではないか、と思われる。そして、勝貞の後裔が、徳川家の旗本として残ったことで、信太氏の系図が菅谷氏のそれとして残った。しかし、信太氏と菅谷と氏はまったく別の家系である。 た。

常陸の戦国時代

 永正十三年(1516)、小田原の北条早雲は相模の三浦氏を滅ぼし関東制覇に大きく乗り出した。同年、古河公方足利成氏が没し、政氏が公方を継いだが、子の高基との間で争いが起こり、高基は宇都宮氏を頼り、政氏は小山氏・佐竹氏の支援を頼んだ。小田政治は高基方の宇都宮氏に味方し、菅谷勝貞を陣代として兵を出し、政氏の軍を破った。その後、政氏は隠居し、高基が公方を継いだことで、宇都宮・小田氏らの勝利となった。さらに同年、小田氏は信太庄上条の若泉氏を遂って土浦城を手中におさめ、信太庄下条の土岐氏も追放している。
 大永四年(1524)、土浦城主信太範貞が病没し、養子の菅谷勝貞が跡を継いで土浦城主となった。このころ、勝貞は信太氏を称していたようで、その後、戦功を挙げることが増え、次第に信太の姓を欲することが薄くなり、ついに実家の菅谷姓を名乗るようになった。このことは、のちに菅谷氏と信太氏との関係を悪化させる一因ともなった。土浦系信太氏は勝貞のあとを政貞が継いだが、政貞は菅谷を名乗っていたようだ。
 政貞が土浦城主となった天文十二年(1543)は、小田氏と宇都宮氏との間で合戦が続いた。小田政治は信太頼範を田土部から坂戸城に移して宇都宮城に備えた。天文十四年、宇都宮勢が、坂戸城に押し寄せたが、頼範は奮戦して宇都宮氏を撃退している。
 天文十七年、小田政治が死去し、翌年、氏治が小田家督を継承した。このときの、小田氏の勢力を知るものとして『小田城家風記』がある。一部を紹介すると、

土浦城主信太泉和守重成
藤沢城主菅谷尾張守(摂津守勝貞)
鹿沼城主信太越中守利重
坂戸城主信太掃部助頼範
守谷城主相馬大蔵太夫小次郎胤房
筒戸城主相馬左近太夫永馬種重
宍倉城主菅谷摂津守
藤沢城主領菅谷尾張左衛門正光(政貞)
手野城主中根主膳万太夫
手子丸城主天羽三河守源鉄斎
鴉山城主小田左馬頭左近少将朝治
和取城主赤松三河守

らの城主の名が知られる。さらに、田土部信濃守、信太能登守・同伊勢守・同治部少輔・同信太外記などの館主・城主の名が記されるなど、小田氏の勢力はもとより家中における信太氏の勢力のほどもうかがえる。土浦城主の信太和泉守重成は、輔範の三男といわれ、初め前沢氏に養子となったが、のちに信太に復帰し小田家の軍奉行となった人物である。
 十六世紀なかばになると、次第に小田氏は佐竹氏らに対して守勢となり、ついに天文二十三年、小田城を落された。その後、奪い返したものの、弘治二年(1556)には結城政勝と戦って大敗し、小田城は落ち氏治は信太重成の土浦城へ逃げた。翌年、氏治は三千の兵を率いて海老ヶ島に出陣したが、また大敗して重成の土浦城へ逃げた。このように氏治は負けるごとに土浦城へ走って、重成の庇護を受けたが、これは土浦城が安全な場所であるということと、重成のことを気に入っていたためと思われる。その後、氏治は小田城に復帰している。
 永禄元年(1558)、佐竹氏が小田城を攻略したときは、藤沢城の菅谷摂津守勝貞のところに避難し、翌年には小田城を取り戻している。
 永禄三年、氏治は常陸山王堂で上杉謙信の越後勢と戦い大敗した。このとき、信太掃部介頼範は、氏治を藤沢城に退かせ、氏治が藤沢城に落ちたことを知ると、頼範はもう一戦し敗れて自害して果てた。菅谷政貞の子政頼もこのときの戦いで戦死している。結果、小田城は落ち多賀谷・真壁氏の手にわたった。頼範の戦死によって小田家中における信太氏の求心力は弱くなり、菅谷氏が台頭するようになり氏治も菅谷氏への傾斜を強めていった。

小田氏の衰退と信太氏

 永禄五年(1562)、氏治と江戸忠通とが戦ったとき信太和泉守が戦死した。この重成の戦死によって小田家中における信太氏の勢力はさらに後退し、菅谷氏が出頭人として勢力を拡大してくることになる。氏治は戦下手な武将で敗戦するごとに重成の土浦城に逃げ込んでいたが、重成の死後は菅谷政貞の藤沢城へ逃げている。
 永禄七年、小田城は上杉輝虎、佐竹・宇都宮連合軍に攻められ、小田城は落城し氏治は藤沢へ逃れ、そこも危険になり土浦城へ逃れた。小田城が落ちたとき、信太掃部助治房は佐竹氏に降伏した。
 佐竹氏は占領した小田城を一門の北義斯に預けた。ところが、翌年には小田氏によって取りかえされてしまった。このとき、義斯を逐ったのは信太氏であった。信太氏は城を奪還するため一計を案じ、北に降伏して無二の忠臣を装い、不意に夜襲をかけて城を奪い返した。ところが、妻子もそれを知らず、子の喜八は城を守るためにかけつけて義斯に捉えられ、太田に連行され虐殺されてしまった。
 この反乱を起こした信太氏は木田余城主の信太氏で、小田城奪還のために実子までを失った。このような信太氏の活躍によって、小田氏治は小田城に復帰することができた。ところが、このときのことが、のちに信太氏の滅亡につながることになる。
 その後、小田氏と佐竹氏の攻防は一掃の激しさを増し、永禄十二年、佐竹義重は小田氏の支城を攻め、小田氏の戦力低下をはかった。そして、十月、手這坂の合戦が起こった。合戦は佐竹氏による挑発から始まり、小田氏は総勢四千騎で青柳山を越し、小田と柿岡の中間にある手這坂へ進出した。ところが、佐竹方の太田三楽・真壁のたった三挺の鉄砲で小田勢の布陣は混乱し、氏治は兵を集め手這坂に陣取り夜明けを待って太田三楽・梶原政景父子らを討つことに決した。これに対して、田伏(信太)兵庫・田土部弾正・信太伊豆守(治房?)らは、兵も疲れておりひとまず小田城に引き返すことを提案した。しかし、氏治の子守治はひとまず引き返す気持ちは分かるが、梶原の首を取らずにおめおめと帰れぬと聞き入れなかった。これに対し、信太は戦を知らぬ揚言と笑い、守治はこの信太の態度に怒った、そこへ上曾・柿岡らが進撃をいいたてたため氏治がそれを入れて進撃に決まった。
 結果は、真壁勢に背後から攻められ、進撃した信太兵庫・田土部弾正ら三百騎以上の者が討ちとられた。信太掃部助は小田城に防備を残すように進言したが聞き入れられず、そのため、小田城は三楽と真壁の兵に抑えられ、氏治は小田城に戻れなくなり、小田軍は総崩れとなる大敗を喫した。氏治は藤沢へ、守治は土浦城に逃れた。この敗戦によって、合戦のとき氏治らに反論した木田余城主信太掃部助治房は土浦城で責任を取らされて自刃し、信太氏の嫡流は断絶した。以後、菅谷氏が小田家中の全権を掌握した。このとき、信太氏が自害させられたのは、永禄七年の小田城落城に際して、計略とはいえ信太氏が佐竹氏に降伏して仕えたことに対する疑念を氏治が払えなかったことにもよるといわれる。

信太氏の最期、諸説

 信太氏の滅亡に関しては諸説があり、たとえば信太伊勢守範宗は、天文二十三年(1554)八月、菅谷左衛門尉に誘殺されたといい、手野の源氏螢は範宗の亡霊だとする伝説を残している。
 また、『菅谷伝記』によれば、信太範宗は主君氏治が諌言を聞き入れない愚将のため、仕えるのがいやになったとして木田余城に引き蘢ってしまった。氏治はその我儘を怒り、範宗を討とうとしたが、近臣らの意見で信太の一族菅谷政貞に処置を任せた。命じられた政貞は一計を案じ、自分も氏治に不満があるようにみせかけるため、氏治に無礼を働いた。政貞は蟄居を命じられ、密かに範宗に小田への謀叛を誘った。範宗はこれに応じ、二人は手野の中根主膳の館で月見の宴を行い、謀叛の計画を話し合った。すっかり油断をしてしまった範宗を政貞は斬殺し、直ちに兵を率い、木田余城を奪取してしまったという。
 一方、『土浦記』では政貞を勝貞とし、範宗は勝貞の伯父ということになっている。二人は仲が悪く、勝貞は氏治に伯父範宗が北条氏直に通じていると讒言して、これを土浦城に騙し討ちしたという。また、戦記物類などでは、政貞を範政とし、範宗を信太重成とし、時期も手這坂の戦のあととしている。
 これらは、いずれも物語的要素が強く史実とみなすわけにはいかない。残された史料から信太氏の最期を見てみると、『烟田日記』に「永禄十三年正月、氏治は木田余城主信田某を土浦で殺害し、木田余城に入った」と記している。また、『佐竹旧記』所収の『手這合戦日記』によると、手這坂に真壁の兵が迫ってきたのを見た信田伊勢守が「今日の目的は達したのだから、追撃軍は放っておいていそぎ帰城すべきである」と進言した。ところが氏治はそれを蹴って、真壁や柿岡の兵と戦い、結局、敗れて小田城さえ失ってしまった、とある。
 おそらく、手這坂の敗戦で氏治の戦術に対して批判的だった信太氏を、氏治は反逆と感じて滅ぼしたものであろう。この事件に関して、巷間いわれるように菅谷氏が関係したかどうかは、史料などからはうかがえない。
 先にも記したように、佐竹氏に奪われた小田城を、信太氏は実子を失うなどの犠牲を払って奪還した。その小田城を氏治は手這坂の戦で失ったことに信太氏は不満をもち、信太氏に小田離反の気持ちを芽生えさせたのかも知れない。あるいは、小田城奪還のため一時的にせよ佐竹氏に従属した信太氏を疑いの目で見ていた氏治が、手這坂の敗戦の腹立たしさもあって、信太氏を粛正したのかも知れない。
 いずれにしろ、信太氏の滅亡は、小田氏の大きな柱を失う結果になった。以後、小田氏は佐竹氏の攻勢を支えきれず、結局、佐竹氏に降参した。

信太氏の余滴

 こうして信太氏の嫡流は滅亡したが、一族のうち、佐竹氏や、津軽氏などに仕える者もいた。また、菅谷氏から信太一族の範貞のもとに養子に入った勝貞の流れが、江戸時代徳川旗本として続いたことで、菅谷系図のなかに信太氏の系図が残された。すなわち、寛政十一年(1799)徳川幕府は寛永諸家系図伝の改撰を開始し、文化九年『寛政重修諸家譜』が完成した。このなかに収められた菅谷系図の勝貞以前が信太系図である。

参考資料:常陸国信太郡に足跡を残した人達/土浦市史 など】

→信太氏ダイジェストへ


■参考略系図
    


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