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信太氏 ●ダイジェスト
亀甲の内に葉菊
(権中納権紀長谷雄後裔)


 信太氏は、紀姓で権中納権紀長谷雄の後裔と伝える。紀八郎貞頼のとき、常陸国信太郡信太荘の荘司となり、のちに信太氏を称した。
 戦国時代、信太氏の嫡流掃部助治房は小田氏の重臣であった。永禄中頃、白河結城氏との交渉にあたっていたことが知られる。その後、佐竹氏の圧力を受けるようになり、佐竹側に組することもあったらしく、元亀元年(1570)、小田氏治が木田余城に入城した日に土浦城で殺された。


信太氏の登場

 信太氏の祖になる紀氏は、貞観八年(866)の応天門の変で、伴氏らとともに紀氏は失脚し中央政界から遠ざかっていった。その後、藤原氏との関係を深め。常陸国信太郡の大半が信太庄として藤原氏に寄進されると、藤原氏との関係から紀貞頼が信太の庄司として常陸に下向し、信太郡下高津に居館を構えた。これが、紀姓信太氏と常陸の関係の始まりである。
 源頼朝がかまくら幕府を開くと八田知家が恩賞地を常陸に賜り次第に勢力を拡大、『吾妻鑑』の記事から信太頼康が八田氏の被官になっていたことがわかる。 八田知家の嫡男知重は小田氏を名乗った。知重のころは下野紀氏益子氏系の今泉氏が有力家臣で、これと並ぶ存在が信太氏であった。以後、信太氏は小田氏の重臣として戦国時代まで続くのである。
 南北朝時代、小田治久は東国の南朝方の中心人物として活躍する。このころの信太氏の当主は宗房で、田土部から土浦に居を移している。興国二年(1341)、治久は高師冬に降伏して所領は没収され、常陸守護職は佐竹氏に移り信太庄は高師冬の支配するところとなった。こうして、小田氏は足利政権に忠勤を励むようになり、信太庄を安堵された。このとき、信太氏は土浦に戻り、以後、頼久・頼冬・頼治と続いた。

関東の戦乱

 南北朝の内乱が終熄したあと、つかの間の平穏があったとはいえ、関東では「永享の乱」「結城合戦」「享徳の乱」と戦乱が絶え間なく続き、戦乱はそのまま戦国時代へと移行していった。  永正十三年(1516)、小田原の北条早雲は相模の三浦氏を滅ぼし、次第に関東の戦国時代における「台風の目」となって関東制覇に大きく乗り出した。
 十六世紀なかばになると、次第に小田氏は佐竹氏らに対して守勢となり、ついに天文二十三年、小田城を落された。その後、奪い返したものの、弘治二年(1556)には、結城政勝と戦って大敗し、小田城は落ち、氏治は信太重成の土浦城へ逃げた。氏治は負けるごとに土浦城へ走って、重成の庇護を受けたが、これは、土浦城が安全な場所であるということと、重成のことを気に入っていたためと思われる。
 永禄七年、小田城は上杉輝虎、佐竹・宇都宮連合軍に攻められ、小田城は落城し、藤沢へ逃れ、そこも危険になり、土浦城へ逃れた。小田城が落ちたとき、信太掃部助治房は佐竹氏に降伏した。その後、小田氏と佐竹氏の攻防は一掃の激しさを増し、永禄十二年、佐竹義重は小田氏の支城を攻め、小田氏の戦力低下をはかった。そして、十月、手這坂の合戦が起こった。結果は、真壁勢に背後から攻められ、進撃した信太兵庫・田土部弾正ら三百騎以上の者が討ちとられるなど、小田軍は総崩れとなる大敗を喫した。
 この敗戦によって、合戦のとき氏治らに反論した木田余城主信太掃部助治房は土浦城で責任を取らされて自刃し、信太氏の嫡流は断絶し、以後、菅谷氏が小田家中の全権を掌握した。このとき、信太氏が自害させられたのは、永禄七年の小田城落城に際して、計略ろはいえ、信太氏が佐竹氏に降伏して仕えたことに対して疑念を払えなかったことにもよるといわれる。いずれにしろ、ここに信太氏の嫡流は滅亡した。
 治房の叔父範宗も、天正元年(1573)小田氏への謀反を疑われて、一族の菅谷政貞に殺害された。子孫は津軽氏などに仕えたという。


■参考略系図
    


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