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![]() 【補遺_1】 安国寺氏/黒川氏/桑山氏/多賀氏/田丸氏 |
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安国寺氏 【割 菱】 安芸守護家の銀山城主武田信重の遺子と伝える。銀山城が毛利氏に落とされ、武田氏が滅亡したとき、東福寺末寺であった安芸安国寺に逃れ、竺雲恵心の法弟となった。恵心は毛利氏の外交僧としても活躍したが、恵瓊はそのあとを受けて、当代きっての外交僧となる。 のちに秀吉の政権下で伊予六万石の大名となった。一方で、安芸安国寺の住持。また東福寺退耕庵庵主、東福寺二二四世、そして南禅寺住持の公帖を受け、禅僧としての最高位に達した。関ヶ原の戦では石田三成方に属し、戦後京都六条河原で斬られた。 |
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黒川氏 陸奥国鶴楯城【五三の桐】 清和源氏足利氏流で、奥州探題最上直家の三男氏直が黒川に封ぜられて、黒川氏を名乗った。応永年間から伊達氏の勢力下に入り、六代景氏は伊達氏の親族飯沼氏から迎えられている。それゆえか、景氏を黒川氏の初代に数えるものもある。 九代晴氏は累代を代表する武将で、月舟斎と号した。天正十六年の春、伊達政宗の大崎領侵入に際して、大崎氏を救け、雪の大崎原野において伊達軍団に決定的打撃を与えたことで有名である。しかし、同十九年、大崎領が伊達氏に帰属したことで黒川氏は滅亡、晴氏は慶長四年に没した。 最上左京大夫直家−氏直---氏矩=景氏----稙家−晴氏−義康 |
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桑山氏 【紀伊和歌山城】【桔梗】 家譜には「結城朝光四代の孫宗広の三男親治が、はじめて桑山を称した」という。一説に「桑山もと鍬山に作る」と、もし鍬山なら上毛野公の後裔とも考えられる。代々、海東郡桑山を領したという。 重晴は以則の子とも定久の子ともいわれ、秀吉の長浜時代の家臣であったことは「竹生嶋奉加帳」からも間違いない。一時、丹羽長秀の与力になっていたという説もある。賤ケ岳の戦いでは、城要塞を固守して佐久間盛政の猛攻には、一見従属するごとく見せかけて時をかせぎ、在陣を続けて秀吉の来援を得た。 この頃秀吉の弟・秀長に仕えて但馬竹田一万石の城主となる。翌々年には二万石を加増されて和歌山城主となった。根来攻めで戦功をあげたことによるという。天正19年(1591)、秀長が郡山に没したのち、大和大納言家は断絶したので秀吉に仕えた。(秀郷流結城氏族) |
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多賀氏 近江国多賀城【酢漿草】 崇俊天皇皇子定世親王の後裔、中原氏が近江国愛知郡長野郷に住んで、多賀神社の神官を務めて多賀氏を称したのがはじまりという。鎌倉幕府の御家人で京極氏の被官となり、元弘建武の騒乱では京極高氏に従軍している。室町中期には犬上郡を本拠とする多賀氏と坂田郡を本拠とする多賀氏が対抗し、前者は豊後守を称し、後者は出雲守を称した。応永十年京極高詮の被官多賀伊勢入道が侍所の所司代に任じられ、京極持清が侍所頭人になると多賀出雲入道が所司代を務めている。この時期、若宮氏と並んで京極氏屈指の有力被官であったことが知れる。 応仁の乱が勃発すると、京極持清に変わって多賀高忠が東軍の京都防衛に奮戦し、山名持豊に対抗した。しかし、近江では多賀昌宗・清直父子が六角氏と結んで優勢で、高忠・昌宗の両多賀氏の死闘は泥沼の状態を続けた。 文明十三年、幕府の仲介で両者は和睦するが、江北は京極高清と昌宗の孫宗直らが実権を握り、高忠は入国すること能わず、弓馬故実家として京都に流寓した。高忠の曽孫貞澄の子貞能のときに明智・豊臣の二氏に仕え、その養子秀種は関ヶ原で西軍に与し改易された。 |
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田丸氏 伊勢国田丸城【八段の鞠挟み】 伊勢国司として、また国司大名として有名な北畠氏からの分かれである。北畠材親の三男具忠が分割相続し、田丸城に住し、その地名をとって田丸氏と称した。もっとも異説もあって、具忠の父は材親ではなく、一代前の政郷とするもの。そうではなく、清和源氏愛洲氏の流れとする考え方もある。 田丸氏歴代のなかで、もっともはなばなしい活躍をしているのは具忠の子直昌である。直昌は蒲生氏郷の妹婿とされている。北畠氏の没落後、信長に属し、はじめは蒲生氏郷の与力となっていたが、のちに蒲生氏を離れて秀吉に直仕することになった。信州川中島で四万石の大名となり、秀吉死後、東美濃岩村城主となった。 関ヶ原の戦いのとき、はじめ家康に従って上杉征伐に従ったが、途中、小山の陣での評議のとき、西軍につくことを宣言し、結局は所領を失っている。子直茂は前田利長に寄寓して、その子孫が前田家の重臣となった。 |