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浅利氏 ●ダイジェスト
十本骨扇/雁金
(清和源氏武田氏流)


 浅利氏は、甲斐源氏の庶流浅利義成が甲斐国青島荘浅利郷に居住し、浅利氏を称したのにはじまる。浅利氏は浅利郷を本貫の地とするが、文治五年(1189)奥羽合戦ののち、浅利遠義は源頼朝から陸奥国比内地方の地頭職を宛行われた。『承久軍記』によれば承久三年(1221)浅利太郎知義が東山道より京都を目指したことが知れる。また太郎は嘉禄二年(1227)若宮祥師公暁を謀殺したと『吾妻鏡』にみえる。その後『奥南落穂集』に「知義下向、鹿角ニ住シ三代浅利太郎義邦トイフ」と記されている。
 浅利氏が比内地方に定着した時期は明かではないが、鎌倉後期には浅利氏の庶流が比内に移住していたものと思われる。
 建武元年(1334)、北畠顕家は南部師行に鹿角・比内を給付した。同年の『津軽降人交名注進状』に浅利六郎四郎清連の名がみえ、建武五年『浅利清連注進状』が残っている。当初南朝方であった浅利氏は、翌二年の足利尊氏の反乱に際して北朝方に与し、建武三・四年に南朝方の南部氏が支配する鹿角の諸城を津軽の曽我氏とともに攻撃している。また、文和三年(1354)の沙弥浄光譲状によれば、南北朝期の浅利氏は甲斐国浅利郡と比内郡を所領としていたことが知れる。
 その後、室町時代における浅利氏の動向は、松峯神社を比内庄司浅利家代々が行ったこと、応永二十五年(1417)『時宗過去帳』に浅利氏阿弥陀仏七名、一房一名がみえる。さらに、永亨十二年の結城合戦において甲斐浅利氏が参加したこと、1441年〜1457年の間の円福寺書状、八戸政経宛に「浅利殿云々」とみえている。しかし、これら、文書に残された浅利氏の関係などの詳細は明確ではない。
 戦国初期、浅利氏嫡流で朝頼の子則頼が甲斐国から移住した。この時期は、永正十五年と天文年間の二説があるが、当初赤利又に居住し、ついで十狐城を築いたと伝えられ、やがて比内地方の支配権を確立した。しかし、則頼の跡を継いだ則祐は、永禄五年(1562)安東(秋田)愛季との抗争が原因で長岡城で自害し、その弟勝頼が安東氏被官として比内の領主となった。
 勝頼は天正年間に入ると独立を図り、秋田氏との間に抗争を起こし、同十一年秋田愛季のために檜山城で謀殺され、勝頼の子頼平は津軽為信のもとに逃れた。頼平は同十八年に、旧領を回復したが、やがて秋田氏との間に争いを起こし、慶長三年(1598)、大坂城での裁定中に急死し、大名としての浅利氏は断絶した。
 その後、浅利氏は頼平の子広治は玉川・横手に住して佐竹氏に仕え、鷹匠を務めたという。

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