天野氏は藤原南家工藤氏の一族で、代々伊豆国天野郷に住して天野氏と称した。景光の子・遠景に至っておおいに名があがった。遠景は内舎人に任官していたことから通称天野藤内を称した。本領である天野郷が「平治の乱」の流人であった源頼朝の配所蛭ケ小島に近かったことから、たびたび頼朝のもとに参じてその信用を得、頼朝の旗揚げに際しては当初よりその軍門に参じた。以降、平氏追討軍として源範頼に従って、中国地方から九州まで転戦して活躍した。 平家滅亡後、頼朝との対立が決定的となった義経が、九州惣追捕使に補任され、これに豊後国の緒方・ 臼杵・佐賀など有力在地武士が呼応する動きを見せたため、頼朝は院の態度のあいまいさを追及し、義経追討の院宣下付を求め、その探索のため全国に守護・地頭を設置することを承認させたのであった。結果、義経は奥州へ落ちていくはめとなった。そして頼朝は義経に変えて九州惣追捕使として天野遠景を起用したのであった。遠景は肥前国神崎荘に対する武士の乱行停止や、南九州の鬼界ケ島に宇都宮信房とともに平家の残党を討つなど、幕府の命を受けて活動している。こうして十年近くにわたり九州で在勤したが、荘園領主などの反発もあって、遠景は鎌倉へ帰っていった。 遠景の子政景は「承久の乱」に戦功があり、長門国の守護職に補任され、また遠江国山香荘の地頭職も得ている。そして父譲りのものを入れると、その所領は明確なところで武蔵・上野・遠江・美濃・河内・安芸・長門の各国に及んでいた。 政景の曽孫・景広の子遠政は足利尊氏に従って能登国東部の地頭になり、その長子頼景の子孫は同国に居住し能登天野氏となった。また、頼景の弟景高は遠江国秋葉城に拠って、宗良親王の令旨を奉じて、南朝のために力を尽くし、その子孫は遠江天野しとなった。 政景の子景経の系統は安芸守や周防守を歴任して、その子孫は安芸国や出雲国および石見国・周防国などに広がっていった。このうち景経の曽孫経顕は遠江国犬居郷の地頭として、犬居城主になったといわれている。この系統が遠江犬居の天野氏である。後裔は今川義元の重臣として仕え、義元滅亡後は武田氏に通じ徳川家康の攻撃を受け、敗れて甲州へ走った。 以上のほかに、景貫の兄正貫の系統が三河に栄え、その支流は尾張国にも広がっていたようだ。さらに正貫や景貫の祖父景康の弟に定景というものがあり、その後裔に康景が出た。康景は家康に仕え、駿河興国寺城主として大名となった。ところが部下が盗賊を働いた天領の民を斬ったことから駿河代官井出正次と確執し、ついに部下をかばって城と大名という身分を棄てた話は有名である。 ■ 遠江天野氏/ ■ 安芸天野氏 ■参考略系図 |