赤尾津氏は小笠原氏の一族、あるいは大井氏の一族という。由利十二頭のうち最大の領主であった。由利十二頭のなかでは、宝徳二年(1450)、小助川立貞が年貢を横領したために赤宇曽領主である三宝院の訴えにより幕府が未進年貢等催促の遵行を決定したということが知られ、小助川立貞はのちの赤尾津氏の祖にあたる人物である。 小助川氏は、小助川地域を勢力下に置き、やがて赤宇曽地方まで勢力を伸ばしたことで、赤宇曽や赤宇津、赤尾津と称したようである。中世の武士は居館の地名をもって名字とすることが多く、のちの赤尾津氏は居館によってそれぞれ名乗りを変えたと思われ、こと名字に関していえば厳密な区別はないといえよう。やがて、亀田の南側に聳える高城山に赤尾津城を築いて本拠とした。 由利地方は大勢力は存在しなかったため、赤尾津氏をはじめとした諸豪族が一揆契約を結んで、時代の荒波を乗り越えようとした。 しかし、北方の秋田・小野寺氏、南方の武藤・最上氏の侵攻を受けることが多く、情勢によってその去従は定まらなかった。 天文元年(1532)小野寺氏の被官の仙北大曲城主前田氏が侵攻したとき、赤尾津左衛門尉(家保)はこれを迎え撃って前田氏を討ち取り、飛嶋を攻略し、嫡孫である長保をもって郡代に命じたという。一方、元亀三年(1570)赤尾津左衛門は前田氏らとの合戦で討死したとするものもある。こちらの左衛門は家保のあとを継いだ人物であろうか。 赤尾津氏の系図は諸本あるが、いずれも人名に異同があり、いずれが真かはにわかに判断できないものである。ちなみに、江戸期成立と思われる系図では、赤尾津左衛門尉−赤尾津(小助川)治部少輔−赤尾津(小助川)孫次郎と続いたと記されている。また、戦国末期から織豊政権期にかけては、「小助川」「赤尾津」と名乗る人物が散見するが、両方の名乗りを用いてたと思われている。 天正十八年(1590)小田原北条氏を降し、つづく奥州仕置によって豊臣秀吉の天下統一が成った。このとき、由利十二頭は「由利衆」として新政権に掌握され、文禄の役では大谷吉継に属している。ちなみに、太閤検地のとき、赤尾津氏が安堵された領地高は四千六百五十石であったと推定されている。 関ヶ原の合戦に際しては、最上氏に属して出羽合戦に参加した。このとき、西軍の流したデマを信じた大半の由利衆は逃亡したが、赤尾津は岩谷・滝沢・仁賀保らとともにとどまり、戦後、一躍出羽の大大名となった最上氏に仕えた。しかし、まもなく赤尾津氏は滅亡したといい、居城は最上氏の家臣湯沢満茂が入城し、間もなく廃された。赤尾津氏滅亡の理由は不明だが、残った一族は最上氏や佐竹氏の家臣となったと伝えている。 赤尾津氏最後の当主は赤尾津(小助川)孫次郎といわれ、元禄年間に成立した系図では道俊が孫次郎に相当する人物と思われ、慶長五年(1600)に下野国古河で病死したという。しかし、それ以後も「赤尾津孫次郎」の名が史料にみえ、正保年中(1644〜1647)死去したとの記録も残されている。 いずれにしても、由利十二頭の有力者として戦国時代を生きた赤尾津氏は、新時代に生き延びることはできず、ついに没落し家の記録も失われてしまったのである。 ←赤尾津氏へ |