ヘッダ


   
近江の山城
佐和山城訪問記   


佐和山城は、石田三成の居城としてあまりに有名な城だ。その歴史をたどれば、 鎌倉時代のはじめ近江守護職に補任された佐々木定綱の六男時綱が佐和山の山麓に居館を設けたことに始まる。
その後、江北を治めた佐々木京極氏の支城となり、同じ佐々木一族で江南を治める六角氏勢力との境目の城となった。 戦国時代、浅井氏が江北の覇者になると、浅井氏と六角氏の間で佐和山城をめぐる争奪戦が繰り返された。 浅井長政を滅ぼした織田信長は、佐和山城を近江における拠点として重要視して修築、 安土城を築くまで近江における居城とした。秀吉時代になると佐和山城には、堀秀政、堀尾吉晴、そして 石田三成らが配されて、近江における重要拠点として機能しつづけた。


佐和山_遠望
城址北麓を走る東海道本線のレール越しに佐和山城を見る


今年の五月(2010年)、戦国倶楽部さん主催の山城行オフ会に参加したとき、 同行した城郭ドットコムさんとサクッと登った。しかし、そのときは限られた時間だっただけに、 見落としたところがあるようで改めて登りなおしたいと思っていた。 ということで、青春18切符を活用して佐和山城を再訪してきた。
彦根駅前でレンタサイクルを借りて登り口のある龍譚寺へ、 午前十時過ぎだが、すでにとんでもない暑さだ。 途中で佐和山の写真を撮りながら龍譚寺前の駐車場に到着、 井伊神社に参拝し、駐車場の案内書で佐和山城の縄張図を入手してのち龍譚寺へ。 龍譚寺山門から境内に入ると、すぐ左手に石田三成像が端座している。 龍譚寺墓地を辿るかたちで佐和山城への登山道があり、 「猿が出没するので注意」のカンバンを横目に登っていけば城址東端の尾根に到着する。 そこから西方向へ登って行けば塩硝蔵→西ノ丸→本丸へと続いていく。


佐和山_東端堀切 佐和山_硝煙蔵 佐和山_土塁
城址東端の堀切  塩硝櫓跡  西ノ丸の土塁


西ノ丸の主郭側に築かれた土塁、西方に落とされた竪堀は見応え十分! 竪堀に沿った西尾根には階段状に曲輪が築かれている。 西ノ丸からは二の丸方面へ続く道があり、 先の土塁が連絡道を防御する格好の武者隠しともなっている。 主郭へは土塁の西端より急斜面を登る道が続いているが 縄張り図を見れば国道八号線側に大手があり、龍譚寺側は搦め手であったようだ。 おそらく、本来は大手より三の丸→二の丸と登っていたものであろう。


佐和山_竪堀 佐和山_本丸 佐和山_千貫井
竪堀跡  本丸から彦根城、琵琶湖を眺望  千貫井

佐和山_石垣址 佐和山_三成屋敷跡 佐和山_三成像
本丸東南部に残る石垣址  東南山麓の三成屋敷跡石碑  龍譚寺の石田三成像


主郭に立って北西を望めば、眼下に彦根城から琵琶湖が広がり、北方には湖東の最高峰−伊吹山が見事に見える。 東方は樹木に覆われているが、往時は中山道を往来する人馬を眼下に見下ろすことができたであろう。 文字通り、近江国東北部を押さえる要害の地であったことが実感できる。 本丸から東南に下れば、千貫井・落城に際して女たちが身を投げたという女郎谷、僅かばかりの石垣址があり、 太鼓丸・法華丸、さらに千畳敷曲輪が続いている。
しかし、龍譚寺から本丸までの行程に比べると、 藪化が進行中で、千畳敷曲輪まで行くことは断念せざるをえない状態であった。 聞けば、大土居・大手門などの址が残っている国道八号線側からは、 登山道は整備されていないとのこと。これだけの規模と歴史を有した佐和山城址にして 保存活動の現状はこれかと思うと寂しいものがあった。

● 登城 : 2010年5月9日 ・ 8月4日
  



戻る 上へ

戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
由来ロゴ 家紋イメージ


地域ごとの戦国大名家の家紋・系図・家臣団・合戦などを徹底追求。
戦国大名探究
………
徳川家康
播磨赤松氏
出雲尼子氏
戦国毛利氏

どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、 どのような意味が隠されているのでしょうか。
家紋の由来にリンク

人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。 なんとも気になる名字と家紋の関係を モット詳しく 探ってみませんか。
名字と家紋にリンク

www.harimaya.com