上杉謙信は、幼名を虎千代といい、元服して長尾景虎と称した。天文十七年に兄晴景と争い、
守護上杉定実の調停で長尾の家督を譲られ春日山城主となった。以後、戦国動乱の時代にあって、
紺地日の丸、白地に毘字の旗幟をなびかせて、北陸・信濃・関東に出陣を重ねた。
宿敵武田信玄との五度にわたる「川中島の合戦」は戦国時代の合戦中の白眉として名高い。
永禄四年、上杉憲政から家を譲られ関東管領職に就き、上杉政虎、ついで輝虎と名乗る。
のち出家して謙信を称した。天正四年、本願寺と和睦し、織田信長との同盟関係を断ち、はるか遠く
中国筋の毛利氏と連携して織田信長挟撃を策した。翌年九月織田方の能登七尾城を陥し、ついで信長軍を
加賀手取川に撃破した。しかし、翌天正六年三月、関東への陣触れをした直後、脳溢血で倒れた。
享年四十九歳。
戦国時代を疾風の如く駆け抜けた、合戦の天才児上杉謙信はどのような人物で、
どのような一生を過ごしたのだろうか。
・謙信を祀る春日山神社の提灯に描かれた上杉笹紋
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