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 毛利氏は、系図によれば天穂日命を祖としている。のち野見宿禰などを経て音人にいたり大江氏を称するようになったという。しかし、そのあたりまでのことは確実ではない。大江匡房、さらに大江広元が出、そのあたりから比較的信憑性のあるものとなってきている。
 大江広元は、鎌倉幕府草創の功臣として有名。元暦元年(1184)、源頼朝の招きによって京都より鎌倉に下り、公文所の別当となって、源頼朝の政治を補佐し、特に守護・地頭の設置を頼朝に献策したことで知られている。これらの功によって、相模国毛利荘・周防国島末荘・肥後国山本荘・伊勢国来真荘などの所領を与えられた。
 広元には六男五女があり、長男親広は内大臣久我通親の猶子となり、次男時広は長井氏、三男政広は那波氏を称し、四男季光が毛利氏となり、五男忠成が海東氏となった。六男は僧籍に入っている。

●毛利氏系図


 さて毛利という名字であるが、これは、広元が与えられた相模国毛利荘という荘名に由来する。つまり、分割相続で毛利荘を与えられた四男季光が、同所に居住し、その荘名をとってそのまま苗字としたわけである。  毛利氏の苗字の地である毛利荘は、現在神奈川県厚木市の北部から愛甲郡愛川町の南西部にかけてのあたりに比定されている。
 毛利季光は、天福元年(1233)から評定衆となるが、宝治元年のいわゆる「宝治合戦」に巻き込まれることになる。これは、三浦泰村が執権北条時頼と争い、鎌倉を戦場として戦ったもので、三浦氏が敗れ、以後、執権北条氏による独裁体制が確立する契機となった戦いとして有名である。
 季光の妻は三浦義村の娘、すなわち泰村の妹であり、泰村が時頼と争ったとき、かれは躊躇なく泰村の軍に加わり、その結果、六月四日の戦いで敗れ、鎌倉の法華堂で、長男広光、二男光正、三男泰光らとともに自刃してしまったのである。
 季光にはもう一人男子がおり、経光といった。経光は宝治合戦のとき、たまたま越後国佐橋庄に在国していたため、泰村の反乱には無関係ということになり、北条時頼の追討をうけることなく、佐橋荘および安芸国吉田荘の地頭職を安堵されたのである。ただし、毛利荘は没収された。
 ふつうならば、泰村の蜂起に荷担したということで、毛利氏の所領・所職など一切没収になるような状態であったが、 北条氏の側にも有力御家人を次々に抹殺していったといううしろめたさがあったものか、このとき、 毛利氏に対する処置は寛大なものであった。結果的にこのことによって、毛利氏の存続が保障されたのである。
  




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