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 大江氏は古代氏族土師氏から出た。土師氏は出雲国造と同祖で、天穂日命に出ずると伝え、垂仁天皇のとき、野見宿禰が当麻蹴速を倒して「相撲の元祖」となり、また殉葬者に代えて埴輪を創製し、土師姓を賜ったという。大和国添下郡菅原伏見邑を本拠とした。連姓で天武天皇のとき宿禰姓に改められた。
 天応元年(781)土師宿禰宇庭の次男古人が上奏して、郷里の地名により菅原宿禰姓を賜り、延暦九年(790)朝臣姓に改められた。
 一方、大江氏を出した土師氏は山城国乙訓郡大枝に住し、桓武天皇の縁戚となったため、延暦九年大枝朝臣の姓を 賜ったのに起こり、貞観八年大枝音人が奏請して、大枝を大江に改めたのである。代々、文章家を家職とした。 ところが、大江氏の場合、平城天皇の皇子阿保親王の子が本主であるとするものもある。しかし、これは後世の仮冒 といえものであろう。

■参考略系図



 同族に、大和国添下郡秋篠を本拠とした秋篠朝臣もあった。また『菅原氏系図』によれば、菅原古人の弟真仲が、延暦九年に大枝姓を賜ったとある。
 大江音人は、文章道をもって立身し参議に進み、清和天皇の政治の諮問にあずかり、学者の家としての基礎を築いた。音人のあと、朝綱・匡衡などが文章博士として活躍し、さらに匡衡の曾孫匡房は博識で、朝儀故実に通じ、詩文・和歌にもすぐれ、平安時代後期の代表的な学者となり、大江家の中では最高の地位にのぼった。
 匡房の曾孫が広元で、父の死後、母が明法博士中原氏に再嫁したため、その養子となり、中原姓を称し、のち再び大江姓に復した。大江家は文章道、中原家は明法道の家柄であったから、広元は早くから学問・法律に通じ、元暦元年(1184)源頼朝の招きに応じて鎌倉に下り、公方所の別当に任命され、翌年には守護・地頭の設置を建策し、その功として肥後国山本庄を与えられている。
 建久二年(1191)に政所別当となり、建久四年には、明法博士・左衛門尉に任じられた。頼朝の死後は北条氏に協力し、頼家・実朝を補佐する一方、畠山・比企・和田氏らの有力御家人の勢力を屈服させ、北条氏独裁体制の確立に参画した。

■土師氏略系図
  




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