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元就の生涯を追いながら。

 
  
年号西暦元就の人生
明応 六1497毛利弘元の二男として安芸国吉田郡山城に生まれる。
文亀 元1501母、福原氏没。
永正 三1506父、弘元没。
永正十三1516初陣、武田元繁と有田・中井出で戦いこれを破る。
このころ吉川国経の娘を娶る。
大永 三1523長男、隆元生まれる。
尼子経久に従って銀山城攻める。
幸松丸の死去に伴い、毛利宗家の家督を継ぐ。
大永 五1525尼子の傘下を脱し、大内義興に従う。
亨禄 三1530二男。元春生まれる。
天文 二1533三男。隆景生まれる。
天文 九1540尼子詮久(晴久)郡山城を囲まれる。以後、激戦が続く。大内氏の援軍・陶隆房来着。
天文 十1541尼子軍撤退。武田信実を攻略、武田氏滅亡する。
天文十一1542大内義隆に従い、出雲に出陣。
天文十二1543石見路より撤退。途中尼子軍の追撃にあうが、無事帰着。
天文十五1546隆元に家督を譲る。
天文十六1547元春、吉川家を相続。
天文十九1550井上一族を誅殺。隆景小早川氏を相続。
弘治 元1555厳島で陶軍と戦い、大勝。

戦国時代を苛烈に生きた毛利元就は、生涯二百数度の戦いに臨み、あるときは権謀術数をもちい、 ある時は真正面から敵にぶつかるなど、毛利氏の発展に尽くした。 その版図は安芸国の吉田から発して、安芸国をはじめ、備後・備中のほぼ全域・出雲・石見・伯耆 の半国・周防・長門・伊予の一部、筑前と豊前の一部にまで広げた。まさに中国地方の覇者であった。

  
年号西暦元就の人生
弘治 二1556石見山吹城を攻撃。
弘治 三1560陸奥守に任じられる。
桶狭間の戦い。
永禄 三1556石見山吹城を攻撃。
永禄 六1563隆元急逝。孫・幸鶴丸、跡を継ぐ。月山富田城を攻撃。
永禄 七1564尼子義久を破る。
永禄 八1565幸鶴丸、元服し輝元と改名。初陣で月山富田城を総攻撃。
永禄 九1566尼子義久ら降伏。
永禄十一1568伊予の一部を平定。
織田信長、足利義昭を奉じて京都に入る。
永禄十二1569立花城総攻撃。大内輝弘を討つ。
元亀 元1570輝元らとともに出雲に出陣。尼子勝久を討つ。
姉川の戦い。
元亀 二1571六月十四日死去。享年七十五歳
信長、比叡山を焼き討ち。
  




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