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 宝治元年(1247)、三浦泰村が執権北条時頼と争った「宝治合戦」において、壊滅的打撃を受けた毛利氏であったが、ひとり経光のみがゆるされて鎌倉御家人として家を保った。経光には、基親・時光・政光・時親らの男子があり、北条庄は基親に、南条庄および安芸国吉田庄が時親に譲られた。こうして時親が安芸国吉田庄の地頭となって移り住んだのが、毛利氏が中国地方で発展するスタート台となった。
 鎌倉幕府の滅亡、建武の新政、そして足利尊氏の室町幕府の開幕という歴史の大きな変わり目に遭遇したのは時親であった。時親は河内国加賀田郷を嫡男貞親に、また越後国南条荘を二男親元の子家親、三男広顕、貞親の子親衡らに分け与え、自らは親衡の子元春(師親)に在京料として与えられた吉田荘吉田郷山田村に入ったのである。延元元年(1336)七月のことであり、足利尊氏が兵庫の湊川で楠木正成を破った直後のことである。
 南北朝内乱の嵐は容赦なく毛利氏の上にも吹き荒れ、時親は足利尊氏方として一貫した態度をとり、 自らは老体でもあり、曾孫の元春が時親の代官として尊氏軍に加わって活躍していた。ところが嫡男貞親は、 越後国南条荘にあって後醍醐天皇方として活躍した。つまり、父子で北朝と南朝方に分かれてしまったのである。 時親はそうした争乱の最中の暦応四年(1341)に没し、吉田荘の支配は元春が引き継ぐことになった。
 元春の代あたりから庶子家が派生し、坂・有富・麻原・中馬・福原氏などが生まれている。また坂氏からさらに 桂・光永・志道氏などの庶流家が生まれ、戦国大名としての毛利氏を支える一族家臣となっていくのである。
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●毛利氏支流系図

 元春のあとを継いだのが広房で、永徳元年(1381)に吉田荘地頭職半分を譲られている。しかし、 至徳二年(1385)に戦死してしまい、遺領はその遺児光房に安堵された。光房は足利義満の命をうけて周防に 大内盛見を攻めたり、九州にも遠征したりしたが、永亨八年(1436)、九州で没している。
 毛利氏にとって南北朝内乱が、安芸の国人領主として成長する大きなバネとなったことは間違いない。そして、 もう一つ応仁・文明の乱の影響も大きかった。豊元は応仁・文明の乱にあたって西軍山名方につき、 文明七年(1475)の安芸鏡山城の後詰めなど、各地において戦功をあげ、山名氏や大内氏などから新たに 所領を与えられ、版図を急速に増加していったのである。それは、急成長と呼ぶにふさわしいものであった。
 豊元の嫡子が弘元である。文明八年、父豊元の死によって九歳で家督を継ぐことになった。同十年元服し、 大内政弘から偏諱を受けて弘元と名乗ることになった。弘元の時代で注目されるのは、「流れ公方」で知られる 足利義稙が大内義興を頼って下向しており、幕府からは弘元に義稙追討の命が下り、一方、毛利氏は大内氏の 傘下にあるという、いわば板ばさみの状況に置かれていた点である。まだ、戦国大名として自立できない 国人領主段階の必然的な姿でもあった。
 弘元の室は福原広俊の娘で、この二人の間に幸千代丸と松寿丸が生まれた。幸千代丸がのちの興元であり、 松寿丸が元就となる。
 毛利氏が戦国大名へ転化をとげたのは元就のときからである。元就は、弘元の次男として生まれたが、 兄興元が若死、その子幸松丸も九歳で病死した。その時、家臣団は元就を盛りたてようとする派と、尼子氏の 後楯をもって元就の弟元綱を推そうとする派の二派に分かれて争うことになった。元就は元綱を殺し、 自力で毛利氏の当主の座を確保することに成功した。
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●毛利元就画像
よく見る温和な元就像に比べて、油断のならない戦国武将の風貌を伝えてはいないか。
  




戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
由来ロゴ 家紋イメージ

どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、 どのような意味が隠されているのでしょうか。
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