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毛利輝元は、慶長三年に秀吉の死に臨んで秀頼の補佐を遺託された。そして慶長五年、徳川家康打倒を図った石田三成より秀頼の命と称され、安国寺恵瓊を介して大坂に召される。大坂城には、養子であった秀元が既におり、輝元を諌めた。
「このたびのことは、三成・増田長盛等が謀り事にして秀頼公の意にあらず、何ぞ卒爾に来たりたまいしや。このこと東照宮に御聞に達しなば必ず譴責あるべし。それがし急ぎ東国に馳せ下り二心なき由を謝し申すべし」と。
家康のことを「東照宮」と記し「御聞」と敬語を用いているのは、この文章の引用が呈譜からであるゆえ。
輝元は、秀吉の遺命に背いてばかりの家康の専恣に隠忍してきたものの、同じ五大老の上杉景勝が窮地に立たされていることもあって、決然たる思いに至ったのであろう。しかし事は、輝元には急に過ぎた。
七月、奉行衆方つまり西軍の同盟主に祭り上げられる。が、輝元を補佐する吉川元広は東軍の勝利は必至と見て毛利家の存続を図るべく、恵瓊の説得に応じなかった。輝元は、大坂城西の丸に在って自身の兵を動かさず、家老の福原広俊を名代として、その弟左近を質として許容される。
十月、所領のうち周防・長門両国を嗣子秀就ともども賜り「父子身命異議あるべからざる」との一紙の御誓詞を下され、またのち井伊直政も誓書を送ってこれを証した。
以上のように、豊臣家の五大老をつとめ、関ヶ原の合戦にいたって、心ならずも家康に敵対することになった輝元であったが、戦後、吉川元広らの奔走も空しく、祖父元就や父隆元、叔父の吉川元春・小早川隆景らが築き挙げた毛利氏120万石の領国を、防長二国三十六万余石に改易されてしまった。居城も山陽側の広島から、山陰側の萩に移ることとなった。
藩政は苦しい経済状態のなかでスタートすることになった。吉元の代に藩校明倫館を創設するが、財政悪化は依然と続き、重就は打開のために検地を行い、増微分を新田開発基金として投資したが、困窮は続き、斉元の代の天保二年(1831)には大規模な一揆が発生した。
その後、敬親の代に至り、村田清風を抜擢し萩藩の大改革に着手した。清風は敬親の厚い信頼を受けて、銀八万貫を超える借金に苦しむ藩の財政再建をはじめ、内政・軍事のすべてにわたって藩政改革を進めたのである。しかし、天保十四年、保守党の反撃をうけて失脚、清風は生地の長門国に退いた。以後、長州藩は改革党と保守党に二分され、両派の抗争が続くことになる。が、清風の築いた再建策はその後も機能し、幕末のころには余剰金を生み出すに至った。
文久三年(1863)には、藩府を萩から山口に移し、翌元治元年には攘夷が実行されて下関戦争となり、この戦を機に階級を問わない奇兵隊などの諸隊が誕生した。そしてこれが中核となって討幕へと動き出す。さらに慶応二年(1866)には、坂本龍馬らの奔走により、蛤御門の宿敵であった薩摩藩との同盟が締結された。
翌三年、薩長両藩主導によって王政復古がなり、翌四年の鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争において、主導的立場で旧幕府軍を破り、明治新政府を確立させた。関ヶ原合戦での苦い敗北以来、268年後のことであった。
●長州藩-幕末維新に活躍した英傑の家紋
■江戸期毛利氏略系図
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どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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2010年の大河ドラマは「龍馬伝」である。龍馬をはじめとした幕末の志士たちの家紋と逸話を探る…。
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これでドラマをもっと楽しめる…ゼヨ!
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